ファラデーの伝

ファラデーの伝

電気学の泰斗

愛知敬一


偉人の伝記というと、ナポレオンとかアレキサンドロスとか、グラッドストーンというようなのばかりで、学者のはほとんど無いと言ってよい。なるほどナポレオンやアレキサンドロスのは、雄であり、壮である。しかし、いつの世にでもナポレオンが出たり、アレキサンドロスの出ずることは出来ない。文化の進まざる時代の物語りとして読むには適していても、修養の料にはならない。グラッドストーンのごときといえども、一国について見れば二、三人あり得るのみで、しかも大宰相たるは一時に一人のみしか存在を許さない。これに反して、科学者や哲学者や芸術家や宗教家は、一時代に十人でも二十人でも存在するを得、また多く存在するほど文化は進む。ことに科学においては、言葉を用うること少なきため、他に比して著しく世界的に共通で、日本での発見はそのまま世界の発見であり、詩や歌のごとく、外国語に訳するの要もない。
これらの理由により、科学者たらんとする者のために、大科学者の伝記があって欲しい。しかし、科学者の伝記を書くということは、随分むずかしい。というのは、まず科学そのものを味った人であることが必要であると同時に多少文才のあることを要する。悲しいかな、著者は自ら顧みて、決してこの二つの条件を備えておるとは思わない。ただ最初の試みをするのみである。
科学者の中で、特にファラデーを選んだ理由は、第一に彼は大学教育を受けなかった人で、全くの丁稚小僧から成り上ったのだ。学界にでは家柄とか情実とかいうものの力によることがない、腕一本でやれるということが明かになると思う。また立身伝ともいえる。次に彼の製本した本も、筆記した手帳も、実験室での日記も、発見の時に用いた機械も、それから少し変ってはいるが、実験室も今日そのまま残っている。シェーキスピアやカーライルの家は残っている。ゲーテ、シルレルの家もあり、死んだ床も、薬を飲んだ杯までもある(真偽は知らないが)。ファラデーのも、これに比較できる位のものはある。科学者でファラデーほど遺物のあるのは、他に無いと言ってよい。それゆえ、伝記を書くにも精密に書ける。諸君がロンドンに行かるる機会があったら、これらの遺物を実際に見らるることも出来る。
第三に、何にか発見でもすると、その道行きは止めにして、出来上っただけを発表する人が多い。感服に値いしないことはないが、これでは、後学者が発見に至るまでの着想や推理や実験の順序方法について、貴ぶべき示唆を受けることは出来ない。あたかも雲に聳そびゆる高塔を仰いで、その偉観に感激せずにはいられないとしても、さて、どういう足場を組んで、そんな高いものを建て得たかが、判らないのと同じである。
ファラデーの論文には、いかに考え、いかに実験して、それでは結果が出なくて、しまいにかくやって発見した、というのが、偽らずに全部書いてある。これでこそ発見の手本にもなる。
またファラデーの伝記は決して無味乾燥ではない。電磁気廻転を発見して、踊り喜び、義弟をつれて曲馬見物に行き、入口の所でこみ合って喧嘩をやりかけた壮年の元気は中々さかんである。莫大の内職をすて、[#「莫大の内職をすて、」は底本では「莫大の内職をすて、」]宴会はもとより学会にも出ないで、専心研究に従事した時代は感嘆するの外はない、晩年に感覚も鈍り、ぼんやりと椅子いすにかかりて、西向きの室から外を眺めつつ日を暮らし、終に眠るがごとくにこの世を去り、静かに墓地に葬られた頃になると、落涙を禁じ得ない。
前編に大体の伝記を述べて、後編に研究の梗概こうがいを叙することにした。
大正十二年一月
著者識す。
前編 生涯

生い立ち
一 生れ
前世紀の初めにロンドンのマンチエスター・スクエーアで、走り廻ったり、球をころがして遊んだり、おりおり妹に気をつけたりしていた子供があった。すぐ側のヤコブス・ウエルス・ミュースに住んでいて、学校通いをしていた子供なのだ。通りがかりの人で、この児に気づいた者は無論たくさんあったであろうが、しかし誰れ一人として、この児が成人してから、世界を驚すような大科学者になろうと思った者があろうか。
この児の生れたのは今いうたミュースではない。只今では大ロンドン市の一部となっているが、その頃はまだロンドンの片田舎に過ぎなかったニューイングトン・ブットが、始じめて呱々ここの声をあげた所で、それは一七九一年九月二十二日のことであった。父はジェームス・ファラデーといい、母はマーガレットと呼び、その第三番目の子で、ミケルという世間には余り多くない名前であった。父のジェームスは鍛冶職人かじしょくにんで、身体も弱く、貧乏であったので、子供達には早くからそれぞれ自活の道を立てさせた。

ヤコブス・ウェルス・ミュースの家

二 家系
ファラデーの家はアイルランドから出たという言い伝えはあるが、確かではない。信ずべき記録によると、ヨークシャイアのグラッパムという所に、リチャード・ファラデーという人があって、一七四一年に死んでいるが、この人に子供が十人あることは確かで、その十一番目の子だとも、または甥だともいうのに、ロバートというのがあった。一七二四年に生れ、同八六年に死んでいるが、これが一七五六年にエリザベス・ジーンという女と結婚して、十人の子を挙げた。その子供等は百姓だの、店主だの、商人だのになったが、その三番目に当るのが一七六一年五月八日に生れたジェームスというので、上に述べた鍛冶屋さんである。ジェームスは一七八六年にマーガレット・ハスウエルという一七六四年生れの女と結婚し、その後間もなくロンドンに出て来て、前記のニューイングトンに住むことになった。子供が四人できて、長女はエリザベスといい一七八七年に、つづいて長男のロバートというのが翌八八年に、三番目のミケルが同九一年に、末子のマーガレットは少し間をおいて一八〇二年に生れた。
一七九六年にミュースに移ったが、これは車屋の二階のささやかな借間であった。一八〇九年にはウエーマウス町に移り、その翌年にジェームスは死んだ。後家さんのマーガレットは下宿人を置いて暮しを立てておったが、年老いてからは子供のミケルに仕送りをしてもらい、一八三八年に歿なくなった。

三 製本屋
かように家が貧しかったので、ミケルも自活しなければならなかった。幸いにもミュースの入口から二・三軒先きにあるブランド町の二番地に、ジョージ・リボーという人の店があった。文房具屋で、本や新聞も売るし、製本もやっていた。リボーは名前から判ずると、生来の英国人では無いらしい。とにかく、学問も多少あったし、占星術も学んだという人である。
一八〇四年にミケルは十三歳で、この店へ走り使いをする小僧に雇われ、毎朝御得意先へ新聞を配ったりなどした。骨を惜しまず、忠実に働いた。ことに日曜日には朝早く御用を仕舞って、両親と教会に行った。この教会との関係はミケルの一生に大影響のあるもので、後にくわしく述べることとする。
一年してから、リボーの店で製本の徒弟になった。徒弟になるには、いくらかの謝礼を出すのが習慣になっていた。が、今まで忠実に働いたからというので、これは免除してもらった。
リボーの店は今日でも残っているが、行って見ると、入口の札に「ファラデーがおった」と書いてある。その入口から左に入った所で、ファラデーは製本をしたのだそうである。
かように製本をしている間に、ファラデーは単に本の表紙だけではなく、内容までも目を通すようになった。その中でも、よく読んだのは、ワットの「心の改善」や、マルセットの「化学叢話そうわ」や、百科全書エンサイクロペジア中の「電気」の章などであった。この外にリオンの「電気実験」、ボイルの「化学原理大要」も読んだらしい。
否、ファラデーはただに本を読んだだけでは承知できないで、マルセットの本に書いてある事が正しいかどうか、実験して見ようというので、ごくわずかしかもらわない小遣銭で、買えるような簡単な器械で、実験をも始めた。

四 タタムの講義
ファラデーはある日賑にぎやかなフリート町を歩いておったが、ふとある家の窓ガラスに貼ってある広告のビラに目をとめた。それは、ドルセット町五十三番のタタム氏が科学の講義をする、夕の八時からで、入場料は一シリング(五十銭)というのであった。
これを見ると、聴きたくてたまらなくなった。まず主人リボーの許可を得、それから鍛冶職をしておった兄さんのロバートに話をして、入場料を出してもらい、聴きに行った。これが即ちファラデーが理化学の講義をきいた初めで、その後も続いて聴きに行った。何んでも一八一〇年の二月から翌年の九月に至るまでに、十二三回は聴講したらしい。
そのうちに、タタム氏と交際もするようになり、またこの人の家には書生がよく出はいりしたが、その書生等とも心易くなった。そのうちには、リチャード・フィリップスというて、後に化学会の会長になった人もあり、アボットというて、クエーカー宗の信者で、商店の番頭をしておった人もある。後までも心易く交際しておった。アボットと往復した手紙がベンス・ジョンスの書いたファラデー伝の中に入れてあるが、中々立派に書いてある。そのうちには、ファラデーが時々物忘れをして困るというような事も述べてある。ファラデーは随分と物忘れをして、困ったので、その発端は既にこの時にあらわれている。仕方がないので、後にはポケットにカードを入れて置いて、一々の用事を書きつけたそうである。
またアボットの後日の話によれば、ファラデーが自分の家の台所へ来て、実験をしたこともあり、台所の卓子テーブルで友人を集めて講義をしたこともあるそうだ。この頃ファラデーが自分で作って実験を試みた電気機械は、その後サー・ジェームス・サウスの所有になって、王立協会に寄附され、今日も保存されてある。
ファラデーはタタムの講義をきくにつれて、筆記を取り、後で立派に清書して、節を切り、実験や器械の図をも入れ、索引を附して四冊とし、主人のリボーに献ずる由を書き加えた。
この筆記を始めとして、ファラデーが後になって聴いたデビーの講義の筆記も、自分のした講義の控ノートも、諸学者と往復した手紙も、あるいはまた金銭の収入を書いた帳面までも、王立協会に全部保存されて今日に残っている。
リボーの店には、外国から政治上の事で脱走して来た人達が泊とまることもあった。その頃には、マスケリーという著名な画家がおった。ナポレオンの肖像を画いたこともある人で、フランスの政変のため逃げて来たのである。ファラデーはこの人の部屋の掃除をしたり、靴を磨いたりしたが、大層忠実にやった。それゆえマスケリーも自分の持っている本を貸してやったり、講義の筆記に入用だからというて、画のかき方を教えてやったりした。

五 デビーの講義
ファラデイの聴いたのはタタムの講義だけでは無かった。王立協会のサー・ハンフリー・デビーの講義もきいた。それはリボーの店の御得意にダンスという人があって、王立協会の会員であったので、この人に連れられて聞きに行ったので、時は一八一二年二月二十九日、三月十四日、四月八日および十日で、題目は塩素、可燃性および金属、というのであった。これも叮嚀に筆記を取って置いて、立派に清書し、実験の図も入れ、索引も附けた。だんだん講義を聴くにつれ、理化学が面白くなって来てたまらない。まだ世間の事にも暗いので、「たとい賤いやしくてもよいから、科学のやれる位置が欲しい」と書いた手紙を、ローヤル・ソサイテー(Royal Society)の会長のサー・ジョセフ・バンクスに出した。無論、返事は来なかった。

六 デビーに面会
そうこうしている中に、一八一二年十月七日に製本徒弟の年期が終って、一人前の職人となり、翌日からキング町に住んでいるフランス人のデ・ラ・ロッセというに傭われることになった。ところが、この人は頗すこぶる怒り易い人なので、ファラデーはすっかり職人生活が嫌いになってしまった。「商売のような、利己的な、反道徳的の仕事はいやだ。科学のような、自由な、温厚な職務に就きたい」というておった。それでダンスに勧められて、自分の希望を書いた手紙をデビーに送り、また自分の熱心な証明として、デビーの講義の筆記も送った。しかし、この筆記は大切の物なれば、御覧済みの上は御返しを願いたいと書き添えてやった。この手紙も今に残っているそうであるが、公表されてはおらぬ。
デビーは返事をよこして、親切にもファラデーに面会してくれた。この会見は王立協会の講義室の隣りの準備室で行われた。その時デビーは「商売変えは見合わせたがよかろう。科学は、仕事がつらくて収入は少ないものだから」というた。この頃デビーは塩化窒素の研究中であったが、これは破裂し易い物で、その為め目に負傷をして衝を起したことがある。自分で手紙が書けないので、ファラデーを書記に頼んだことがあるらしい。多分マスケリーの紹介であったろう。しかしこれは、ほんの数日であった。
その後しばらくして、ある夜ファラデーの家の前で馬車が止った。御使がデビーからの手紙を持って来たのである。ファラデーはもう衣を着かえて寝ようとしておったが、開いて見ると、翌朝面会したいというのであった。
早速翌くる朝訪たずねて行って面会すると、デビーは「まだ商売かえをするつもりか」と聞いて、それから「ペインという助手がやめて、その後任が欲しいのだが、なる気かどうか」という事であった。ファラデーは非常に喜び、二つ返事で承諾した。

七 助手
それで、一八一三年三月一日より助手になった。俸給は一週二十五シリング(十二円五十銭)で、なお協会内の一室もあてがわれ、ここに泊ることとなった。
どういう仕事をするのかというと、王立協会の幹事との間に作成された覚書の今に残っているのによると、「講師や教授の講義する準備をしたり、講義の際の手伝いをしたり、器械の入用の節は、器械室なり実験室なりから、これを講堂に持ちはこび、用が済めば奇麗にして元の所に戻して置くこと。修理を要するような場合には、幹事に報告し、かつ色々の出来事は日記に一々記録して置くこと。また毎週一日は器械の掃除日とし、一ヶ月に一度はガラス箱の内にある器械の掃除をもして塵をとること。」というのであった。
しかしファラデーは、かような小使風の仕事をするばかりでなく、礦物の標本を順序よく整理したりして、覚書に定めてあるより以上の高い地位を占めているつもりで働いた。
ファラデーが助手になってから、どんな実験の手伝いをしたかというに、まず甜菜てんさいから砂糖をとる実験をやったが、これは中々楽な仕事ではなかった。次ぎに二硫化炭素の実験であったが、これは頗る臭い物である。臭い位はまだ可よいとしても、塩化窒素の実験となると、危険至極の代物だ。
三月初めに雇われたが、一月半も経たたない内に、早くもこれの破裂で負傷したことがある。デビーもファラデーもガラス製の覆面マスクをつけて実験するのだが、それでも危険である。一度は、ファラデーがガラス管の内に塩化窒素を少し入れたのを指で持っていたとき、温いセメントをその傍に持って来たら、急に眩暈めまいを感じた。ハッと意識がついて見ると、自分は前と同じ場所に立ったままで、手もそのままではあったが、ガラス管は飛び散り、ガラスの覆面も滅茶滅茶に壊こわれてしまっておった。
またある日、このガスを空気ポンプで抽ぬくと、静に蒸発した。翌日同じ事をやると、今度は爆発し、傍にいたデビーも腮あごに負傷した。
かようなわけで、何時どんな負傷をするか知れないのではあるが、それでもファラデーは喜んで実験に従事し、夕方になって用が済むと、横笛を吹いたりして楽しんでおった。

八 勉強と観察
ファラデーは暇さえあれば、智識を豊かにすることを努めておった。既に一八一三年にはタタムの発起にかかる市の科学界に入会した。(これは後につぶれたが)。この会は三・四十人の会員組織で、毎水曜日に集って、科学の研究をするのである。この外にもマグラース等六・七人の同志が集って、語学の稽古をして、発音を正したりなどした。
一方において、王立協会で教授が講義をするのを聴いたが、これも単に講義をきくというだけでは無く、いろいろの点にも注意をはらった。その証拠には、当時アボットにやった手紙が四通も今日に残っているが、それによると、講堂の形から、通風、入口、出口のことや、講義の題目、目と耳との比較を論じて、机上に器械標本を如何に排列すべきかというような配置図や、それから講師のスタイル、聴者の注意の引きつけ方、講義の長さ等に至るまで、色々と書いてある。その観察の鋭敏なることは驚くばかりで、後にファラデー自身が講師となって、非常に名声を博したのも、実にこれに基づくことと思われる。

九 王立協会
王立協会(Royal Institution)はファラデーが一生涯研究をした所で、従ってファラデー伝の中心点とも見るべき所である。それ故、その様子を少しく述べて置こうと思う。この協会の創立は一七九九年で、有名なルムフォード伯すなわちベンヂャミン・トンプソンの建てたものである。(この人の事については附録で述べる)。
それで王立協会の目的はというと、一八〇〇年に国王の認可状の下りたのによると、「智識を普及し、有用の器械の発明並びに改良を奨め、また講義並びに実験によりて、生活改善のために科学の応用を教うる所」としてある。
しかし、その翌年には既に財政困難に陥って維持がむずかしくなった。幸いにデビーが教授になったので、評判が良くなり、この後十年間は上流社会の人達がデビーの講義を聞くために、ここに雲集した。しかし財政は依然として余り楽らくにもならず、後で述べるように、デビーが欧洲大陸へ旅行した留守中につぶれかけたこともあり、一八三〇年頃までは中々に苦しかった。
かように、一方では大学に似て、教授があって講義をする。しかし余り高尚なむずかしい講義はしない。また実験室があって研究もする。けれども他方では、会員があって、読書室に来て、科学の雑誌や図書の集めてあるのを読むようになっている。
その頃、欧洲の大学では実験室の設備のあった所は無いので、キャンブリッジ大学のごとき所でも、相当の物理実験室の出来たのは、ファラデーの死んだ後である。それ故、王立協会に実験室のあったということは、非常な長所と言って宜しい。
しかし時代が移り変って、現今では欧洲の大学には物理や化学の立派な実験室が出来た。その割合に王立協会のは立派にならない。今日でも講義をする場所としては有名であるが、それに関わらず、研究の余り出ないのはこのためである。

一〇 王立協会の内部
ロンドンの中央より少々西に寄ったピカデリーという賑やかな通から北へ曲りて、アルベマール町へはいると、普通の家と軒を並べた、大きなギリシャ式の建物がある。戸を開けて這入はいると、玄関の正面には大きな石の廻り階段があって、その左右に室がある。室には、棚に書物あり、机の上には雑誌ありという風で、読書室になっている。また器械室と小さな標本室もある。さて正面の大きな階段を登ると、左に準備室があって、その先きに大きな講堂がある。講堂には大きい馬蹄形の机があって、その後方に暖炉や黒板があり、壁には図面などが掛かるようになっている。机の前には半円形になった聴講者の腰掛がならべてあり、一列毎に段々と高くなり、その上には大向うの桟敷に相当する席もあり、全体で七百人位は入れる。
この室はファラデーの時代には非常に大きい講堂として有名なものであった。しかし今日では、ドイツ辺の大学の物理講堂は、無論これ位の大きさはあるので、昔の評判を耳にしていて、今日実際を見ると、かえって貧弱の感がする。
また階下には小さな化学実験室がある。これは初めに小講堂であった室で、その先きに、昔からの実験室がある。炉や砂浴や机などがあり、棚には一面にいろいろの道具や器械が載せてある。この実験室は今でも明るくはないが、昔はもっと暗かったそうである。この実験室こそファラデーの大発見をした室である。その先きに暗い物置があるが、これから狭い階段を登ると、場長の住む室の方へとつづいている。
以上が大体ファラデー時代の王立協会の様子である。この後に多少変ったり、広くもなった。ファラデーの後任のチンダルが、一八七二年に全部を改築し、一八九六年にはモンドが「デビー―ファラデー実験室」というのを南に建て増しをした。その後ヂュワーが低温度の実験をしたとき重い機械を入れたため、多少の模様変えをした。しかし今日でも昔のおもかげは残っている。[#「残っている。」は底本では「残っている 」]また大通りに十四本の柱があるが、これはファラデー時代に附けたもので、この間の入口を這入はいると、今日では玄関にファラデーの立像がある。

一一 王立協会の講義
王立協会でやっている講義は三種類で、これはファラデーの時代からずっと引続いて同じである。
クリスマスの頃に子供のために開くやさしい講義が六回位ある。また平常一週三回位、午後三時からの講義があって、これは同じ題目で二・三回で完了することが多い。それから金曜の夜の九時からのがある。これが一番有名なので、良い研究の結果が出ると、それを通俗に砕いて話すのである。現今ではここで話すことを以て名誉として、講師には別に謝礼は出さないことにしてある。それでも、講師は半年も一年も前から実験の準備にかかる。もちろん講師自身が全部をするのではない、助手が手伝いをするのではあるが。
これらの講義は、著者も滞英中、聴きに行ったことがある。聴衆は多くは半白の老人で、立派な紳士が来る。学者もあり、実業家もある。夫婦連れのもあるが、中には老婦人だけ来るのもある。自働車で来るのが多いという有様で、上流の紳士に科学の興味があるのは喜ばしいことではあるが、昔のファラデーを想い起すというような小僧や書生の来ておらないのには、何となく失望を禁じ得ない。会員は多いようである。会員外の人は聴講料を出す。かなり高い。二回で半ギニー(十円五十銭)位であったと思う。一回分が丁度芝居の土間位の金高である。
大陸旅行
一二 出立
ファラデーが助手となって、六個月ばかり経つと、ファラデーの一身上に新生面の開ける事件が起った。それはデビーが欧洲大陸を旅行するという事件で、デビーはナポレオン皇帝から特別の旅券をもらい、夫人同伴で旅行する。そしてファラデーを書記として伴うことになった。
一八一三年九月に旅行の話が定まり、十月十三日ロンドンを出発し、同一五年三月二十三日に帰るまで、約一年半の間、フランス、イタリア、スイス、オーストリア、ドイツを巡った。
ファラデーはこのとき二十二才の青年で、最も印象をうけ易い年頃であったから、この旅行より得たものは実に莫大で、単に外国を観たというのみでなく、欧洲の学者を見たり、その話を聞いたりした。丁度普通の人の大学教育に相当するのが、ファラデーではこの大陸の旅行である。

一三 フランス
この旅行についてファラデーは委細の記事を残した。これを見ると、デビーの友人の事から、旅行中の研究もわかり、これに処々ところどころの風景や見聞録を混じているので、非常に面白い。
ファラデーはロンドンに育ったから、市外の青野を見ていたばかりで、小山を山岳と思い、小石を岩石と思っていたという次第である。それゆえロンドンを立ってデボンシャイアに来たばかりで、もう花崗石だの、石灰石だのという、ロンドンあたりでは見られぬものが地上に顕あらわれて来たので、これが地盤の下にある岩石かと、その喜びと驚きとは非常であった。また海を見るのも初めてであり、ことにフランスの海岸に近づくと、熱心に南方を眺め、岸に着いては労働者を見て、文明の劣れる国だと驚いた。
それから税関の騒擾そうじょうに吃驚きっきょうしたり、馬車の御者が膝の上にも達する長い靴をはき、鞭をとり、革嚢かくのうを持っているのを不思議がったり、初めてミミズを見たり、ノルマンヂイの痩せた豚で驚いたりした。
パリではルーブルを見て、その寳物を評して、これを獲たことはフランスの盗なることを示すに過ぎずというたり、旅券の事で警察に行ったら、ファラデーは円い頤あごで、鳶色の髪、大きい口で、大きい鼻という人相書をされた。寺院に行っては、芝居風で真面目な感じがしないといい、石炭でなくて木の炭を料理に使うことや、セイヌ河岸にいる洗濯女から、室内の飾りつけ、書物の印刷と種々の事が珍らしかった。
学問の方面の事を書いて見ると、デビーの所へアンペアやクレメントが来て、クルトアの発見したXという新しい物を示し、これを熱すると美しい菫すみれ色の蒸気が立ちのぼった。それからアンペアがこの見本をよこしたので、デビーはファラデーを相手に実験をはじめた。この物が何であるかということをフランスの学者は秘密にしておったが、後には海の草から取るという事だけ漏らした。これはヨウ素なのだ。
パリを立つ前に、ファラデーはナポレオンをちょっと見た。馬車に乗って、黄鼬テンの大きな長衣を着こみ、頭には天鵞絨ビロードの帽子を戴き、鳥の羽がさがりて顔もほとんど見えないばかりであった。この外にフンボルトにも逢い、またゲー・ルーサックが二百人の学生に講義をしてる所をも見た。

一四 イタリア入り
十二月二十九日にパリを立ち、郊外のフォンテン・ブローを過ぐる際、折りしも森林は一面に結晶した白い氷で被われて、非常な美観を呈していた。リオン、モンペリエ、ニースを過ぎて、地中海の岸にヨウ素を探し、翌一八一四年の正月終りには、六千尺のコール・デ・タンデの山雪を越えて、イタリアに入った。チューリンにて謝肉祭に逢い、ゲノアにては電気魚の実験をなし、これの起す電気にて水の分解されるや否やをしらべた。
ゲノアから小舟にてレリシという所に渡ったが、危くも難破せんとした。それよりフローレンスに向った。フローレンスでは、アカデミア・デル・シメント(Academia del Cimento)に行って、図書館、庭園、博物館を見物した。ここにはガリレオの作った望遠鏡があり、筒は紙と木とで、両端にレンズがはめてあるだけだが、ガリレオはこんな粗末な物で、木星の衛星を発見したのだ。またいろいろの磁石を集めたのがあったが、中には百五十斤の重さの天然磁石もあった。タスカニイの大公爵の所有にかかる大きな「焼きガラス」も見た。つまり大きなレンズに外ならぬ。これにて太陽の光を集め、酸素でダイヤモンドを焼き、ダイヤモンドは純粋の炭素より成ることを確めた。
四月初めにはローマに向い、そこからファラデーは旅行の事どもを書いた長い手紙を母親に送り、また元の主人のリボーにも手紙を出した。そのうちには、政治上のごたごたの事や、デビーの名声は到るところ素晴らしいため、自由に旅行できることも書いてある。またパリが同盟軍に占領された由も書き加えてある。
ローマでは、モリシニが鋼鉄の針に太陽の光をあてて磁石にするという、あやしい実験を見、月夜にコロシウムの廃趾を越え、朝早くカンパニアの原を過ぎ、ネープルに向った。匪徒ひとの恐れありというので、護衛兵をも附した。
五月半ばには再度ベスビアスに登ったが、二度目の時は丁度噴火のあった際であり、それに噴火口に着いたのが夕方の七時半だったので、一段の壮観をほしいままにした。
六月にはテルニに行って、大瀑布の霧にうつれる虹を見たが、このとき虹の円形の全体を見ることができた。アペナイン山を過ぎて、ミランに着いたのは七月十七日。有名なボルタはこの時もう老人であったが、それでも頗る壮健で、遠来の珍客たるデビーに敬意を表せんとて、伯爵の大礼服をつけて訪ねて来て、デビーの略服にかえって驚かされた。
コモ湖を過ぎてゼネバに来り、しばらくここに滞在した。

一五 スイス
この間に、友人アボットに手紙を出して、フランス語とイタリア語との比較や、パリおよびローマの文明の傾向を論じたりしたが、一方では王立協会の前途について心配し、なおその一節には、
「旅行から受くる利益と愉快とを貴ぶことはもちろんである。しかし本国に帰ろうと決心した事が度々ある。結局再び考えなおして、そのままにして置いた。」
「科学上の智識を得るには屈竟くっきょうの機会であるから、サー・デビーと共に旅行を続けようと思う。けれども、他方ではこの利益を受けんがために、多くの犠牲を払わねばならぬのは辛い。この犠牲たるや、下賤の者は左程と思わぬであろうが、自分は平然としていられない。」
そうかと思うと、
「サー・デビーはヨウ素の実験を繰りかえしている。エム・ピクテーの所の三角稜プリズムを借りて、そのスペクトルを作った。」
それから、終りには、
「近頃は漁猟と銃猟とをし、ゼネバの原にてたくさんの鶉うずらをとり、ローン河にては鱒ますを漁った。」
などとある。

一六 デビー夫人
かくファラデーが、辛棒出来かねる様にいうているのは、そもそも何の事件であるか。これにはデビイの事をちょっと述べて置く。
デビーが一八〇一年に始めてロンドンに出て来たときは、田舎生れの蛮カラだったが、都会の風に吹かれて来ると、大のハイカラになりすまし、時代の崇拝者となり、美人の評判高かった金持の後家と結婚し、従男爵に納まってサー(Sir)すなわち準男爵を名前に附けるようになり、上流社会の人々と盛んに交際した。この度の旅行にもこの夫人が同行したが、夫人は平素デビーの書記兼助手たるファラデーを眼下に見下しておったらしい。
さて上に述べた手紙に対して、アボットは何が不快であるかと訊きいてよこした。ファラデーはこの手紙を受取って、ローマで十二枚にわたる長文の返事を出した。これは一月の事だが、その後二月二十三日にも手紙を出した。この時には事件がやや平穏になっていた時なので、
「サー・デビーが英国を出立する前、下僕が一緒に行くことを断った。時がないので、代りを探すことも出来なくて、サー・デビーは非常に困りぬいた。そこで、余に、パリに着くまででよいから、非常に必要の事だけ代りをしてはくれまいか、パリに行けば下僕を雇うから、と言われた。余は多少不平ではあったが、とにかく承知をした。しかしパリに来て見ても、下僕は見当らない。第一、英国人がいない。また丁度良いフランス人があっても、その人は余に英語を話せない。リオンに行ったが無い。モンペリエに行っても無い。ゼネバでも、フローレンスでも、ローマでも、やはりない。とうとうイタリア旅行中なかった。しまいには、雇おうともしなかったらしい。つまり英国を出立した時と全く同一の状態のままなのである。それゆえ初めから余の同意しない事を、余のなすべき事としてしまった。これは余がなすことを望まない事であって、サー・デビーと一緒に旅行している以上はなさないわけには行かないことなのだ。しかも実際はというと、かかる用は少ない。それにサー・デビーは昔から自分の事は自分でする習慣がついているので、僕のなすべき用はほとんどない。また余がそれをするのを好まぬことも、余がなすべき務と思っておらぬことも、知りぬいているから、不快と思うような事は余にさせない様に気をつけてくれる。しかしデビー夫人の方は、そういう人ではない、自分の権威を振りまわすことを好み、余を圧服せんとするので、時々余と争になることがある。」
「しかしサー・デビーは、その土地で女中を雇うことをつとめ、これが夫人の御用をする様になったので、余はいくぶんか不快でなくなった。」
と書いてある。
かような風習は欧洲と日本とでは大いに違うているので、少し註解を附して置く。欧洲では、下女を雇っても、初めから定めた仕事の外は、主人も命じないし、命じてもしない。夜の八時には用をしまうことになっていると、たとい客が来ておろうと、そんな事にはかまわない。八時になれば、さっさと用をやめて、自分の室に帰るなり、私用で外出するなりする。特別の場合で、下女が承知すれば用をさせるが、そのときは特別の手当をやらねばならぬ。デビーはファラデーに取っては恩人であるから、日本流にすれば、少々は嫌やな事もなしてよさそうに思われるが、そうは行かない。この点はファラデーのいう所に理がある。しかし他方で、ファラデーは権力に抑えられることを非常に嫌った人で、また決して穏かな怒りぽくない人では無かったのである。

一七 デ・ラ・リーブ
そのうちに、ファラデーに同情する人も出来て来た。一八一四年七月から九月中旬までゼネバに滞在していたが、デ・ラ・リーブはデビーの名声に眩くらまさるることなく、ファラデーの真価を認め出した。その動機は、デビーが狩猟を好むので、リーブも一緒に行ったが、リーブは自分の銃は自分で装填し、デビーの鉄砲にはファラデーが装填する。こんな事で、リーブとファラデーとは談話する機会を得、リーブはファラデーが下僕ではなくて、実験の助手であることも知ったし、またこの助手が中々偉い人間であることも知った。それでほとんどデビーに次ぐの尊敬を払いはじめた。ある日、リーブの所で正餐をデビー夫妻に饗もてなしたことがあった。その時ファラデーをも陪席させると言い出した。しかしデビーは下僕の仕事もしているのだからというて断った。しかしリーブは再三申し出して、とにかく別室でファラデーを饗応きょうおうすることにした。
ファラデーはリーブを徳としたのか、その交際はリーブの子の代までも続き、実に五十年の長きに亘わたった。

一八 旅行のつづき
再び旅行の事に戻ろう。デビーはゼネバを立って、北方ローザン、ベルン、ツーリヒに出で、バーデンを過ぎてミュンヘンに行き、ドイツの都会を巡遊して、チロールを過ぎり、南下してピエトラ・マラの近くで、土地より騰のぼる燃ゆるガスを集め、パヅアに一日、ヴェニスに三日を費し、ボログナを通ってフローレンスに行き、ここに止まって前に集めたガスを分析し、十一月の初めには再びローマに戻って来た。
ファラデーは一・二度母親にも妹にも手紙を送り、また王立協会の前途を案じてはアボットに手紙を送り、「もし事変の起るようなことでもあったら、そこに置いてある自分の書籍を忘れずに取り出してくれ。これらの書籍は旧に倍しても珍重するから」と書いてやった。また自分の属する教会の長老には寺院のお祭りや謝肉祭の光景、コロシウムの廃跡等をくわしく書きおくり、若い友人にはフランス語の学び方を述べた手紙を送ったりした。
この頃のファラデーの日記を見ると、謝肉祭の事がたくさんかいてある。その馬鹿騒ぎが非常に気に入ったらしく、昼はコルソにて競馬を見、夕には仮面舞踏会に四回までも出かけ、しかも最後の時には、女の寝巻に鳥打帽という扮装で押し出した。
サー・デビーは、それからギリシャ、トルコの方面までも旅行したい希望であったが、見合わすこととなり、一八一五年二月末、ネープルに赴いてベスビアス山に登り、前年の時よりも噴火の一層活動せるを見て大いに喜んだ。
このとき何故か、急に帰途に就くこととなり、三月二十一日ネープルを出立、二十四日ローマに着、チロールからドイツに入り、スツットガルト、ハイデルベルヒ、ケルンを経て、四月十六日にはベルギーのブラッセルにつき、オステンドから海を渡ってヂールに帰り、同じく二十三日には既にロンドンに到着した。
中年時代
一九 帰国後のファラデー
ファラデーは再び王立協会に帰って、以前と同じ仕事をやりだしたが、ファラデーその人はというと旧阿蒙きゅうあもうではなかった。ファラデーにとっての大学は欧洲大陸であって、ファラデーの先生は主人のデビーや、デビーの面会した諸学者であった。
この頃は英国と大陸との交通がまだ少ない時代であったから、外国の学者に知り合いの出来たことは非常に都合が好く、自分の研究を大陸に知らせるにも非常な便宜を得た。ことにフランスではアカデミー(Academie)の出来たてで、その会員の人々にも心易くなった。
一八一五年五月には引き続いて王立協会に雇わるることとなって、俸給も一週三十シリング(十五円)に増したが、その後に一年百ポンド(一千円)となった。
今日に残っている実験室の手帳を見ると、この年の九月から手が変って、化学教授のブランドの大きな流し書きから、ファラデーの細かい奇麗な字になっている。デビーは欧洲へ出立するとき教授をやめて、ブランドが後任となり、デビーは名誉教授となって研究だけは続けておった。

二〇 デビーの手伝い
この頃デビーはほのおの研究をしていた。これは鉱山で、よくガスが爆発して、礦夫の死ぬのを救わんため、安全灯を作ろうという計画なのである。ファラデーもこれを手伝った。デビーの安全灯の論文の初めにも、「ファラデー君の助力を非常に受けた」と書いてある。
デビーは金網を用いて火を包み安全灯を作ったが、一八一六年には礦山で実地に用いられるようになった。しかしこの安全灯とても、絶対に安全という訳には行かない。議会の委員が安全灯を試験した際にも、ファラデーはこの由を明言した。ファラデーは先生のデビーにはどこまでも忠実であったが、しかし不正を言うことは出来ない人であった。
ファラデーはデビーの実験を助ける外に、デビーの書いた物をも清書した。デビーは乱雑に字を書くし、順序等には少しも構わないし、原稿も片っ端しから破ってしまう。それでファラデーは強しいて頼んでその原稿を残して置いてもらい、あとで二冊の本に製本した。今日に保存されている。

二一 自分の研究
これまでのファラデーは智識を吸収する一方であったが、この頃からボツボツと研究を発表し出した。初めて講演をしたのは一八一六年の一月十七日で、市シティ科学会でやり、また初めて自分の研究した論文を出したのもこの年で、「科学四季雑誌」(Quarterly Journal of Science)に発表した。講演は物質に関するもので、論文は生石灰の分析に就いてである。いずれもそう価値のあるものではない。
しかし、これは特筆に値いするものというて宜かろう。ささやかなる小川もやがては洋々たる大河の源であると思えば、旅行者の一顧に値いするのと同じく、ファラデーは講演者として古今に比いなき名人と謂いわれ、また研究者としては幾世紀の科学者中ことに群を抜いた大発見をなした偉人と称たたえられるようになったが、そのそもそもの初めをたずねれば、実にこの講演と研究とを発端とするからである。
かくファラデー自身が研究を始めることになって見ると、デビーの為めに手伝いする部分と、自分自身のために研究する部分との区別がつきにくくなり、これがため後には行き違いを生じたり、妬みを受けたりした。しかし初めの間はまだ左様なこともなく、一八一八年頃デビーが再び大陸に旅行しておった留守にも、ファラデーは実験室で種々の研究をし、ウエストの新金属というたシリウムを分析して、鉄、ニッケル、硫黄から成ることを発表し、またベスチウムなる金属を分析しては「既知の元素を順次に取り去れば、ベスチウムは無くなってしまった」というた。
一方で研究をすると同時に、他方では講演も上手になろうと苦心し、スマート氏について雄弁術の稽古をし、一回に半ギニー(十円五十銭)の謝礼を払ってやった位、熱心であった。

二二 研究の続き。電磁気廻転
その後ファラデーは結婚した。この事は後にくわしく述べるとして、引きつづいてファラデーのしておった仕事について述べよう。
ファラデーの仕事は、ブランド教授が講義に見せる実験の器械を前以て備え置き、時間が来ると教授の右方に立って、色々の実験をして見せる。講義のない時は、化学分析をしたり、新しい化学の薬品を作ったり、また暇には新しい研究もした。
この数年間にやった新しい研究を述べると、まず塩素の研究をした。しかし、臭い黄色いガスを室の内に撒き散らすのではなくて、炭素と化合させたり、または液体にして、伝染病の消毒に使うというような事をした。次にはヨウ素を研究した。やはり炭素や水素と化合させた。またナフサリンを強い酸に溶したりした。鋼鉄の堅くて錆びないのを作ろうと工夫して、白金だの、その他の金属を少しずつ加えて見たが、これは成功しなかった。一番成功したのは電磁気廻転の実験であった。
一八二〇年にエールステッドが電流の作用によりて磁針が動くのを発見したのが初まりで、電流と磁石との研究が色々と始まった。その翌年にファラデーは、電流の通れる針金を磁極の囲まわりに廻転させる実験に成功した。これは九月三日の事で、ジョージ・バーナードというファラデーの細君の弟も手伝っておったが、それがうまく行ったので、ファラデーは喜びの余り、針金の廻る傍で踊り出してしまい、「廻る! 廻る! とうとう成功したぞ!」といった。「今日の仕事はこれで切り上げ、どこかに行こう。どこがよい。」「アストレーに行って、曲馬でも見よう」と、大機嫌でバーナードを連れてアストレーに行った。これまでは宜かったが、土間の入口で大変に込み合い、大きな奴がバーナードを押しつけた。不正な事の少しも辛棒できないファラデーの事とて、とうとう喧嘩になりかけた。
この頃ファラデーの道楽は、自転車のようなベロシピードというものを造って、朝はやく郊外のハムステッド岡のあたりに出かけたり、夕方から横笛を吹いたり、歌を唄う仲間と一週に一回集ったりした。彼はバスを歌った。

二三 サンデマン宗
キリスト教の宗派はたくさんあるが、そのうちで最も世の中に知られないのはサンデマン宗であろう。
一七三〇年頃にスコットランドのプレスビテリアン教会の牧師にジョン・グラスという人があった。教会はキリストと使徒との教えのみにより支配さるべきもので、国教という様になりて国家と関係をつけるのは間違っている。吾等も新約聖書にあるだけ、すなわち初期のキリスト教徒の信じただけを信ずべきであると説いた。グラスと婿のサンデマンとがこの教旨を諸方に広めたので、この宗をグラサイトとも、またサンデマニアンともいう。
大体の教義については、清教徒に近く、礼拝の形式においてはプレスビテリアンに似ている。しかしこの宗の信者は他の教会と全く不関焉かんせずえんで、他宗の信者を改宗させるために伝道するというようなこともしない。それゆえ余り盛んにもならないでしまった。
ファラデーの父のジェームスがこの教会に属しており、母も(教会には入らなかったが)礼拝に行った関係上、まだ小児の時から教会にも行き、その影響を受けたことは一と通りではなかった。

二四 サラ・バーナード嬢
この教会の長老にバーナードという人があって、銀細工師で、ペーターノスター・ローという所に住んでおった。その次男のエドワードとファラデーは親しかったので、その家に行ったりした。エドワードの弟にジョージというのがあり、後に水彩画家になった人だが、この外に三人の妹があった。長女はもはやかたづいてライド夫人となり、次女はサラといいて、妙齢二十一才、三女のジェンはまだ幼い子であった。ファラデーは前から手帖に色々の事を書いておったが、その中に「愛」を罵ののしった短い歌の句などもたくさんあった。
ところが、これをエドワードが見つけて、妹のサラに話した。サラはファラデーに何と書いてあるのか見せて頂戴なと言った。これにはファラデー閉口した。結局それは見せないで、別に歌を作って、前の考は誤りなることを発見したからと言ってやった。これはその年(一八一九年)の十月十一日のことである。この頃からファラデーは、すっかりサラにまいってしまった。
時に、手紙をやったが、それらのうちには中々名文のがある。翌年七月五日附けの一部を紹介すると、
「私が私の心を知っている位か、否な、それ以上にも、貴女は私の心を御存知でしょう。私が前に誤れる考を持っておったことも、今の考も、私の弱点も、私の自惚うぬぼれも、つまり私のすべての心を貴女は御存知でしょう。貴女は私を誤れる道から正しい方へと導いて下さった。その位の御方であるから、誰なりと誤れる道に踏み入れる者のありもせば導き出さるる様にと御骨折りを御願い致します。」
「幾度も私の思っている事を申し上げようと思いましたが、中々に出来ません。しかし自分の為めに、貴女の愛情をも曲げて下さいと願うほどの我儘わがまま者でない様にと心がけてはおります。貴女を御喜ばせする様にと私が一生懸命になった方がよいのか、それとも御近寄りせぬでいた方がよいのか、いずれなりと御気に召した様に致しましょう。ただの友人より以上の者に私がなりたいと希こい願ったからとて、友人以下の者にしてしまいて、罰されぬようにと祈りております。もし現在以上に貴女が私に御許し下さることが出来ないとしても現在私に与えていて下さるだけは、せめてそのままにしておいて下さい。しかし私に御許し下さるよう願います。」

二五 結婚
サラはこの手紙を父に見せると、父は一笑に附して、科学者が、馬鹿な事を書いたものだといった。ファラデーは段々と熱心になる。サラは返事に困って躊躇し、※[#「女+(「第-竹」の「コ」に代えて「ノ」)、「姉」の正字」、U+59CA、65-6]のライド夫人とラムスゲートの海岸へ旅行に行ってしまった。ファラデーは、もうジッとしてはいられない。追いかけて行って、一緒にドーバーあたりで一日を送り、愉快に満ちた顔して帰って来た。ついに一八二一年六月十二日に結婚した。
式の当日は賑やかなことや、馬鹿騒ぎはせぬ様にし、またこの日が平日と特に区別の無い様にしようとの希望であった。しかし実際においては、この日こそファラデーに取って、生涯忘るべからざる日となったので、その事はすぐ後に述べることとする。
結婚のすぐ前に、ファラデーは王立協会の管理人ということになり、結局細君を王立協会の内に連れて来て、そこに住んだ。しかし舅しゅうとのバーナードの死ぬまでは、毎土曜日には必ずその家に行って、日曜には一緒に教会に行き、夕方また王立協会へ帰って来た。
ファラデーの真身の父は、ファラデーがリボーの所に奉公している中に死んだが、母はファラデーと別居していて、息子の仕送りで暮し、時々協会にたずね来ては、息子の名声の昇り行くのを喜んでおった。
ファラデーは結婚してから一ヶ月ばかりして、罪の懺悔をなし、信仰の表白をして、サンデマン教会にはいった。しかしこの際に、細君のサラには全く相談しなかった。もっとも細君は既に教会にはいってはおった。ある人が何故に相談しなかったときいたら、それは自分と神との間のみの事だから、と答えた。

二六 幸福なる家ホーム
ファラデーには子供が無かった。しかし、この結婚は非常に幸福であった。年の経つに従って、夫妻の愛情はますます濃こまやかになるばかりで[#「ばかりで」は底本では「ばかりて」]、英国科学奨励会(British Association of the Advancement of Science)の年会があって、ファラデーがバーミンガムに旅行しておった時も、夫人に送った手紙に、
「結局、家ホームの静かな悦楽に比ぶべきものは外にない。ここでさえも食卓を離れる時は、おん身と一緒に静かにおったらばと切に思い出す。こうして世の中を走り廻るにつけて、私はおん身と共に暮すことの幸福を、いよいよ深く感ずるばかりである。」
ファラデーは諸方からもらった名誉の書類を非常に大切に保存して置いた。今でも王立協会にそのままある。各大学や、各学会からよこした学位記や賞状の中に、一つの折紙が挟んである。
「一八四七年一月二十五日。」
これらの記録の間に、尊敬と幸福との源として、他のものよりも一層すぐれたものを挟んで置く。余等は一八二一年六月十二日に結婚した。
ファラデー」
またチンダルの書いたファラデー伝には、「これにも優りて、雄々しく、清らかなる、不変の愛情他にあるべきや。宛も燃ゆるダイヤモンドのその如く、四十六年の長きに亘りて、煙なき、純白の光を放ちつつ燃えぬ」
と、美しい筆致で描かれてある。
ファラデーは結婚後、家庭が極めて幸福だったので、仕事にますます精が出るばかりであった。前記の市科学会はもはやつぶれたので、友人のニコルの家へ集って、科学の雑誌を読んだりした。
一八二三年には、アセニウム倶楽部ができた。今のパル・マルにある立派な建物はまだなくて、ウォータールー・プレースの私人の家に、学者や文学者が集ったので、ファラデーはその名誉秘書になった。しかし、自分の気風に向かない仕事だというので、翌年辞した。

二七 ローヤル・ソサイテーの会員
デビーはファラデーの書いたものの文法上の誤を正したり、文章のおかしい所をなおしたりしてくれた。一八二二年に塩素を液化したときのファラデーの論文も、デビーはなおした上に附録をつけ、自分が実験の方法を話したことも書き加えた。しかし、ファラデーの要求すべき領域内に立ち入るようなことはなかった。ただ事情を知らない人には、こうした事もとかく誤解を生じ易い。
すでに二、三年前に電磁気廻転を発見した時にも誤解が起った。ファラデーが発見した以前、ウォーラストンがやはり電磁気廻転のことを考えておった。しかし、ファラデーのとは全く別のものであった。それにも関わらずウォーラストンの友人のワルブルトン等は同じものだと誤解しておった。
この塩素の液化の発見の後に、ファラデーはローヤル・ソサイテーの会員になろうと思った。会員になるには、まず推薦書を作って、既に会員たる者の幾名かの記名を得てソサイテーに提出する。ソサイテーでは引き続きたる、十回の集会の際に読み上げ、しかる後に投票して可否を決するのである。ファラデーのは、友人のフィリップスがこの推薦書を作り、二十九名の記名を得て、一八二三年五月一日に会に提出した。しかし、デビー並びにブランドの記名が無かった。多くの人は、デビーは会長であり、ブランドは秘書だからだと思った。
しかし、後にファラデーが人に話したのによると、デビーはこの推薦書を下げろとファラデーに言った。ファラデーは、自分が出したのではない、提出者が出したのだから、自分からは下げられないと答えた。デビーは「それなら、提出者に話して下げろ。」「いや、提出者は下げまい。」「それなら、自分はソサイテーの会長だから、下げる。」「サー・デビーは会長だから、会の為めになると思わるる様にされたらよい。」
また、提出者の話にも、ファラデーを推薦するのはよくないという事をデビーが一時間も説いた。こんな風で、その頃のデビーとファラデーとの間はとかく円満を欠いておった。しかしその後になって、段々とデビーの感情もなおり、また一方で、ウォーラストンの誤解も分明になって、結局ただ一つの反対票があったのみで、翌一八二四年の一月八日に名誉ある会員に当選した。
デビーの妬み深いのは、健康を損してから一層ひどくなった。この後といえどもファラデーのデビーを尊敬することは依然旧のごとくであったが、デビーの方ではもとのようにやさしく無かった。やがてデビーは病気保養のため、イタリアに転地などをしておったが、五年の後逝なくなった。

二八 講演
一八二三年にブランド教授が講演を突然休んだことがあって、ファラデーが代理をして好評を博した。これが王立協会での、ファラデーの初めての講演である。一八二五年二月には、王立協会の実験場長になった。ブランドはやはり化学の教授であった。
ファラデーが実験場長になってから、協会の会員を招いて実験を見せたり講演を聞かせたりすることを始めた。また講演も自分がやるだけでなく、外からも有名な人を頼んで来た。後になっては、金曜日の夜に開くことになり(毎金曜日ではない)、今日まで引き続きやっている。「金曜夕の講演」というて、科学を通俗化するに非常な効があった。
この講演を何日に誰がして、何という題で、何を見せたか、ファラデーは細かく書きつけて置いた。これも今日残っている。
また木曜日の午後には、王立協会の委員会があるが、この記事もファラデーが書いて置いた。
一八二七年のクリスマスには、子供に理化学の智識をつけようというので、六回ほど講演をした。これも非常な成功で、その後十九年ばかり引きつづいて行った。この手扣てびかえも今日まで保存されてある。これが有名な「クリスマスの講演」というのである。
この年、化学教授のブランドが辞職し、ファラデーが後任になった。一八二九年には、欧洲の旅行先きでデビーが死んだ。
これよりさき、一八二七年に、ロンドン大学(ただ今のユニバーシティ・カレッジというているもの)から化学教授にと呼ばれたが、断った。
一八二九年には、ロンドン郊外のウールウイッチにある王立の海軍学校に講師となり、一年に二十回講義を引き受けた。たいてい、講義のある前日に行って準備をし、それから近辺を散歩し、翌朝、講義をしまいてから、散歩ながら帰って来た。講師としては非常に評判がよかった。一八五二年まで続けておったが、学制が変ったので、辞職して、アーベルを後任に入れた。

二九 協会の財政
この頃ファラデーの発表した研究は既に述べた通りである。しかし、王立協会の財政は引きつづいて悪いので、ファラデーも実験費を出来るだけ節約し、半ペンスの金も無駄にしないように気をつけていた。
それでも一八三一年には、電磁気感応の大発見をした。この翌年の末の頃には王立協会の財政はいよいよ悪くなった。その時委員会の出した報告に、「ファラデーの年俸一百ポンド、それに室と石炭とロウソク(灯用)。これは減ずることは出来ない。またファラデーの熱心や能力に対して気の毒ではあるが、王立協会のただ今の財政では、これを増す余地は絶対にない」ということが書いてある。
しかしその翌年に、下院議員のジョン・フーラーという人が金を寄附してくれて、新たに化学の教授を置くこととなり、ファラデーを終身官として、これを兼任させた。その年俸百ポンドで、今までの俸給の上にこれだけ増俸した事になった。実験費もいくぶん楽になった。その後に俸給もまた少し増した。
ファラデーが年を取りて、研究や講演が出来なくなっても、王立協会の幹事は元通りファラデーに俸給も払い、室も貸して置いて、出来るだけの優遇をした。
実際、王立協会はファラデーが芽生で植えられた土地で、ここにファラデーは生長して、天才の花は爛漫らんまんと開き、果を結んで、あっぱれ協会の飾りともなり、名誉ともなったのであるから、かく優遇したのは当然の事と言ってよい。

三〇 ファラデーの収入
しかし、年俸一百ポンドと室と石炭とロウソク。これがその頃のファラデーの全収入であったか。否、ファラデーは前から内職に化学分析をしておったので、これがよい収入になっていた。一八三〇年には、この方の収入が一千ポンドもあった。そしてこの年に、電磁気感応の大発見をしたのである。
それでファラデーは、自然界の力は時として電力となり、時として磁力となり、相互の間に関係がある。進んでこの問題を解いて大発見をしようか。それともまた、自分の全力をあげて、富をつくるに集中し、百万長者となりすまそうか。富豪か、大発見か。両方という訳には行かぬ。いずれか一方に進まねばならぬ。これにファラデーは心を悩ました。
結局、ファラデーの撰んだ途は、人類のために幸福であった。グラッドストーンの言ったように、「自然はその秘密を段々とファラデーにひらいて見せ、大発見をさせた。しかしファラデーは貧しくて死んだ。」

三一 千五百万円の富豪
チンダルが書いた本には、このときの事情がくわしく出ている。収入の計算書までも調べたところが中々面白いので、多少重複にはなるが、そのままを紹介しよう。
「一八三〇年には、内職の収入が一千ポンド以上あった。翌年には、もっと増すはずであった。もしファラデーが増そうと思ったら、その翌年には五千ポンドにすることは、むずかしくは無かったろう。ファラデーの後半生三十年間は、平均この二倍にも上ったに相違ない。
「余がファラデーの伝を書くに際して、ファラデーの「電気実験研究」を繰りかえして見た。そのときふと、ファラデーが学問と富との話をしたことがあるのを想い起した。それでこの発見か富豪かという問題がファラデーの心に上った年代はいつ頃であったのか、と考え出した。どうも一八三一、二年の頃であるらしく思われた。なぜかというと、この後ファラデーのやった様に、盛んに発見をしつつ、同時に内職で莫大の収入を得るということは、人力の企て及ぶ所でないからだ。しかし、それも確かでないので、ファラデーの収入書が保存されてあるのを取り出して、内職の収入を調べて見た。
「案の定、一八三二年には収入が五千ポンドに増す所か、千九十ポンド四シリングから百五十五ポンド九シリングに減じている。これから後は、少し多い年もあり少ない年もあるが、まずこの位で、一八三七年には九十二ポンドに減り、翌年には全く無い。一八三九年から一八四五年の間には、ただの一度を除いては二十二ポンドを越したことがない。さらにずっと少ない年が多い。この除外の年というのは、サー・チャールズ・ライエルと爆発の事を調べて報告を出した年で、百十二ポンドの総収入があった。一八四五年より以後、死ぬまで二十四年の間は、収入が全くない。
「ファラデーは長命であった。それゆえ、この鍛冶職の子で製本屋の小僧が、一方では累計百五十万ポンド(千五百万円)という巨富と、一方では一文にもならない科学と、そのいずれを撰むべきかという問題に出会ったわけだが、彼は遂に断乎として後者を撰んだのだ。そして貧民として一生を終ったのだ。しかしこれが為め英国の学術上の名声を高めたことは幾許いくばくであったろうか。」
もっともこの後といえども、海軍省や内務省等から学問上の事を問い合わせに来るようなことがあると、力の許す限りは返答をした。一八三六年からは、灯台と浮標との調査につきて科学上の顧問となり、年俸三百ポンドをもらった。

三二 年金問題
一八三五年の初めに、総理大臣サー・ロバート・ピールは皇室費からファラデーに年金を贈ろうと思ったが、そのうちに辞職してしまい、メルボルン男が代って総理となった。三月にサー・ジェームス・サウスがアシュレー男に手紙を送って、サー・ロバート・ピールの手元へファラデーの伝を届けた。ファラデーの幼い時の事が書いてある所などは、中々振っている。「少し財政が楽になったので、妹を学校にやったが、それでも出来るだけ節倹する必要上、昼飯も絶対に入用でない限りは食べないですました」とか、また「ファラデーの初めに作った電気機械」の事が書いてある。ピールはこれを読んで、すっかり感心し、こんな人には無論年金を贈らねばならぬ、早くこれが手に入らないで残念な事をしたと言った。
ところが、サー・ジェームス・サウスは再びこの伝記をカロリン・フォックスに送って、この婦人からホーランド男の手を経て、メルボルン男に差し出した。
初めにファラデーはサウスに、やめてくれと断わりを言ったが、ファラデーの舅のバーナードが宥なだめたので、ファラデーは断わるのだけはやめた。
この年の暮近くになって、総理大臣メルボルン男からファラデーに面会したいというて来た。ファラデーは出かけて行って、まずメルボルン男の秘書官のヤングと話をし、それからメルボルン男に会うた。ところがメルボルン男はファラデーの人となりを全く知らなかったので、いきなり「科学者や文学者に年金をやるということはもともとは不賛成なのだ。これらの人達はいかさま師じゃ」と手酷しくやっつけた。これを聞くやファラデーはむっと怒り、挨拶もそこそこに帰ってしまった。もしやメルボルン男が年金をよこす運びにしてしまうといけないと思うて、その夜の十時にメルボルン男の所へ行って断り状を置いて来た。
事件はこれで落着しなかった。ファラデーの友人はこの話をきいて怒り、ファラデーの知らない間に、この面会の顛末を「フラザー雑誌」に出し、それがまた十一月二十八日の「タイムス」に転載された。英王ウイリアム四世も棄てて置けなくなって、仲裁にはいられ、十二月二十四日にファラデーは三百ポンドの年金を受けることになった。
研究と講演

三三 研究室で
ファラデーは、まず研究せんとする問題を飽くまで撰んで、それからこれを解決すべき実験の方法を熟考する。新しい道具が入用と思えば、その図を画いて、大工に言いつける。あとから変更するようなことはほとんどない。またもし実験の道具が既にある物で間に合えば、その品物の名前を書いて、遅くとも前日には助手のアンデルソンに渡す。これはアンデルソンが急がなくて済むようにとの親切からである。

王立協会内のファラデーの実験室

実験の道具がすっかり揃ってから、ファラデーは実験室に来る。ちゃんと揃っているか、ちょっと見渡し、引出しから白いエプロンを出して着る。準備したものを見ながら、手をこする。机の上には入用以外の物は一品たりとも在ってはならぬ。
実験をやりはじめると、ファラデーは非常に真面目な顔になる。実験中は、すべてが静粛でなければならぬ。
自分の考えていた通りに実験が進行すると、時々低い声で唄を歌ったり、横に身体を動して、代わるがわる片方の足で釣合をとったりする。予期している結果を助手に話すこともある。
用が済むと、道具は元の所に戻す。少くとも一日の仕事が済めば、必ずもとの所に戻して置く。入用のない物を持ち出して来るようなことはしない。例えば孔あなのあいたコルクが入用とすると、コルクとコルク錐きりを入れてある引出しに行って、必要の形に作り、それから錐を引出しにしまって、それをしめる。どの瓶ビンも栓せんなしには置かないし、開いたガラス瓶には必ず紙の葢ふたをして置く。屑くずも床の上に散して置かないし、悪い臭いも出来るだけ散らさぬようにする。実験をするのに、結果を出すに必要であるより以上な物を一切用いないように注意した。
実験が済めば、室を出て階上に登って行き、あとは書斎で考える。この順序正しいことと、道具を出来るだけ少ししか使わないこととは、ファラデー自身がしただけでなく、ファラデーの所で実験の指導を受けた者にも、そうさせた。そうさせられた人からグラッドストーンが聞いて、伝に書いた。それをそのまま著者は紹介したのである。
「自然界に適当な質問をしかけることを知っている人は、簡単な器械でその答を得ることをも知っている。この能のない人は、恐らく多くの器械を手にしても、良い結果は得られまい」というのが、ファラデーの意見である。従ってファラデーの実験室は能率エフィシェンシイが良くは出来ているが、非常に完備しているとはいえなかった。
かようにファラデーは、うまい実験の方法を考えて、ごく簡単な器械で重大な結果を得るということを努めたので、実験家だからというても、毎日朝から夜まで実験室に入り浸りで、手まかせに実験をした人ではない。戦略定って、しかる後始めて戦いに臨むという流儀である。後篇の電磁気感応の発見の所で述べるように、途中に日をおいて実験しているので、この間によく考え、器械の準備をさせて置いたのである。

三四 研究の方針
ファラデーの研究した大方針は天然の種々の力の区別を撤廃して一元に帰させようというのである。
それゆえファラデーが喜んだのは、永久ガスが普通の蒸気と同様に、圧力と寒冷とで液化した時である。感応電流が電池から来る電流と同じく火花を出した時である。摩擦電気や電気鰻ウナギの発する電気が、電池から来る電気と同様な働きをした時である。電池の作用はその化学作用と比例するのを見た時である。偏光を重ガラスに送ったのが磁気の作用で偏光面が廻転した時である。酸素やビスマスも磁性のあることを知った時である。
ファラデーは研究している間、大きな紙に覚え書きを取って行き、実験が終るとそれを少し書きなおし、一部の順序を換えたり、不要の箇所を削ったりし、番号のついた節を切る。これで論文が出来あがる。かかる疑問を起して、かくかくの実験を行い、これは結果が出なかったということまで書きつづり、最後に良い結果の出た実験を書く。

三五 学者の評
デ・ラ・リーブは「ファラデーは予め一定の考案を持つことなしに、器械の前に立って研究を始めたことはない。また他の学者がやる様に、既知の事実をただ細かく実験して見て、定数を測定するというような事もしないし、既知の現象を支配する法則を精しく定めようとした事もない。ファラデーのは、これらとは非常に異なる方法で、神来によるかのごとくに既に研究された方面とは飛び離れ、全く新生面を開く大発見にと志した。しかしこの方法で成功しようというには一つの条件が必要で、それは即ち稀世の天才たるを要するということである。ファラデーにはこの条件が満足されたのだ。ファラデーは自分でも認めておったように、想像力の非常に豊富な人で、他の人が気もつかない様な所までも、平気で想像を逞しくして実験にかかったのである。」というた。
またケルヴィン男の言葉にも、「ファラデーは数学を知らなかった。しかし数学で研究される結果を忖度そんたくし得た。また数学として価値のあるような結果を清楚な言葉で表わした。実に指力線とか磁場とかいうのは、ファラデー専売の言葉であって、数学者も段々とこれを用いて有用なものにした。」

三六 実験して見る
ファラデーはいかによく書いたものでも、読んだだけでは、しっかりと、のみ込めない人であった。友人が新発見の話をして、その価値や、これの影響いかんというようなことを聞かされても、ファラデーは自分で実験して見たものでなければ、何とも返事が出来なかった。
多くの学者は学生や門弟を使うて研究を手伝わせるが、ファラデーにはこれも出来ない。「すべての研究は自分自身でなすべきものだ」というておった。
ロバート・マレットが話したのに、十八年前にムンツの金属という撓たわみ易いが、ごく強い金属を硝酸第二水銀の液に漬けると、すぐ脆もろい硬い物になることをファラデーに見せようと思って持って行った。ファラデーが早速この液を作ってくれたので、自分がやって見せた。ファラデーの眼前で、しかもすぐ側で、やって見せたのだから、まさか疑ったわけではあるまい。しかしファラデーは見ただけでは承知できないと見えて、自分でまたやり出した。まずその金属の一片をとって、前後に曲げて見、それから液に漬け、指の間に入れて破って見た。この間ファラデーは黙ってやっておったが、漸ようよう口を開いて、「そうだ、軟やわらかいが、なるほどすぐに脆くなる。」しばらくしてこれに附け加えて、「そう、もっと何か、こんな事は無いでしょうか。」「新しい事は、これ以外には別にない」と言うたら、ファラデーは多少失望して見えた。
ファラデーがある事実を知るのには、充分満足するまでやって見ることを必要とした。それですっかり判ると、その次にはこれを他の事実と結んで、一つにして考えようと苦心した。実験室の引出しの内に在った覚書に、こんなのがあった。
四段の学位
ある新事実の発見。
この新事実を既知の原理にて説明すること。
説明出来ないような新事実の発見。
その新事実をも説明し得るような一層一般的なる原理の発見。
M、F、

三七 実験に対する熱心
ファラデーの実験に対する熱心は非常なもので、電磁気廻転を発見したときに、踊って喜んだことは、前にも述べた通りである。光に対する磁気の作用をヂューマに見せたときも、実験がすむと、手をこすって、眼は火のように輝き、これを自分が発見したという喜ばしさが、ありありと見えたという話である。
自分の発見だけではない、人の発見した事でも、新しい実験は非常に喜んだ。ヘンリーがアメリカから来て、キングス・カレッジで他の科学者と一緒になったとき、皆が熱電堆から出る電気で火花を飛ばそうと試みた。ヘンリーがそれをやって成功したとき、ファラデーは小児のように喜んで、「亜米利加人ヤンキーの実験万歳」と怒鳴った。それからプリュッカーがドイツから来て、王立協会で真空管内の放電に磁石を働かせて見せたときも、放電の光が磁石の作用に連れて動くのを見て、ファラデーはそのまわりを踊って喜んだ。
またジェームス・ヘイウードがイーストパンで烈しい雷雨のときに、偶然ファラデーに出逢った。ファラデーは「丁度協会の塔に落雷するのを見た」といって、非常に喜んでおった。

三八 発見の優先権
発見の優先権については、ファラデーは非常に重きを置いた。ファラデーのように、誠心誠意の人でもあり、また感覚の鋭敏な人でもあり、かつ初めに苦しい経験を甞なめた人でもあり、また他方で巨万の富をすてて科学の発見を唯一の目的とした人の事であるから、もっともなことである。初めの苦しい経験というのは、デビーの助手をしておった時代に、電磁気廻転につきてウォーラストンとの間に行き違いがあり、その後に塩素の液化の発見についてデビーとの間にごたごたがあった事で、これがため、ローヤル・ソサイテーの会員の当選を危からしめた程である。
この後、ファラデーは研究を発表する時に、月日を明記した。ところが一八三一年に、電磁気感応を発見したときにも、また不思議なことで行き違いが起った。ファラデーの発見は同年の九月から十月の間のことで、これを十一月二十四日にローヤル・ソサイテーで発表した。それより二週間を経て、概要を手紙に書いてパリのハセットの所へ送った。この手紙が行き違いを生ずる源となった。ハセットはこの手紙を十二月二十六日にパリのアカデミーに送ったが、その二十八日の新聞ル・タンに掲げられた。それでローヤル・ソサイテーで発表した元の論文は、この時まだ印刷出来なかった。
このル・タンに載せた手紙をイタリアのノビリとアンチノリとの両人が見て、この先きは自由に研究してよいと思ったから、ファラデーの発見の委細は知らないで、感応の研究をし、その結果をまとめた。一八三二年一月三十一日附であったが、妙なことには雑誌アントロギアの一八三一年の十一月号の遅れたのに出たので、事情をよく知らない大陸の人々の眼には、ファラデーの論文より此方が早く出たように思われた。
ファラデーはノビリ等の論文を英訳して、これに弁明を附し、一八三二年六月のフィロソフィカル・マガジンに出した。またその後に、ゲー・ルーサックの所へも、長い手紙を書いて送り、ノビリ等の論の誤謬をも詳しくいってやった。
科学上の発見の優先権を定める規則として、現今はその発見が学界に通知された日附によることになっているが、これはファラデーの事件から定まったことである。
ファラデーは、実験上の発見は盗まれるものなることを知っておったので、この後は学界で発表するまでは秘密にして、外の人に知らせなかった。反磁性の発見をしたときも、ごく心易いデ・ラ・リーブにだけは手紙で報導したが、それもローヤル・ソサイテーで発表するまでは、他の人に話してくれるなと、特に書き添えて置いた。
ファラデーが後進の人達に話したのには、研究をどんどんとやり、やりてしまったら、まとめてすぐに発表せよというので、すなわち「勉強し、完了し、発表せよ」というのであった。

三九 学界の空気
ファラデーが最初デビーに手紙を送ったときには、商売は利己的のもので嫌だと言った。デビーは、それは世間見ずの若い考で、数年も経つとその非をさとるだろうと言った。
幾年か後に、クロッス夫人がファラデーの実験室に来た時に、学界の空気に感心したと見えて、ファラデーに「俗人の浅墓あさはかな生活や日日の事に齷齪あくせくするのとは全くの別天地で、こんな所で研究をしておられたら、どんなに幸福でしょう」と言った。ところが、ファラデーは頭を振り顔色を変え、悲しそうな声で「私が商売をすてて学界に入った頃には、これでもう度量の狭い、妬み深い俗の世界は跡にしたと思っておったが、これは誤りで、智識は高くなっても、やはり人間の弱点や利己心は消えぬものだということを悟りました」と答えた。

四〇 実用
科学上の発見の話が出ると、すぐに「それが何の用に立つのか」ときかれる。これの答は、人間には智識慾があって智識を得んとするゆえこれを満たすものはみな有用だといいてもよい。しかし問う者は恐らくかかる答では満足すまい。「実用向きで何の用に立つのか」という所存つもりであろう。それに答えるのも、ファラデーの場合にはむずかしくはない。
電気が医用になるというが、これもファラデーの電気ではないか。いずれの都市でも、縦横に引ける針金の中を一方から他方へと流れるものはファラデーの電流ではないか。家々の灯用として使い、また多くの工場では動力に用い、電車もこれで走っているではないか。大西洋なり太平洋なりを航海する船と通信したり大洋の向うの陸から此方の陸へと通信する無線電信も、ファラデーの電気ではないか。
しかし、ファラデー自身は応用の事には少しも手を出さなかった。せっかく、研究して実用に近い所まで来ると、急に方面を換えてしまった。特許も一つも取らなかった。さればといいて実用を軽んじたのではない。
王立協会の金曜講演には、有用な発見の事をよく話した。ゴムの原料や、これから出来た材料、エリクソンの発明にかかる太陽熱利用の機械、鏡にメッキするペチットジェンの方法、木材の乾燥や、それの腐蝕を防ぐ方法、ボネリーの電気応用絹織機、バァリーの考案にかかる上院の通気法等で、ファラデー一生の最後の講演はジーメンスのガス炉の話であった。
ファラデーが塩素につきて講演したとき、結末の所で言ったのに、
「新しい発見の事を聞くと、それは何の用に立つかと、すぐにきく癖の人がある。フランクリンはかような人には嬰児は何の用に立つのかと反問したそうだが、余はこれを用に立つようにしてくれと答えたい。始めて塩素をシールが発見した時には、実用にならなかったので、いわば嬰児であった。しかしこの嬰児が大きくなって、力づいてからは、今日立派に実用になっているではないか。」
つまり、ファラデーは嬰児を作ることに尽力したので、育てて実用にするのは他人に頼んだ訳である。

四一 講演振り
ファラデーは講演者としても非常に巧妙で、その頃肩をならべる者がなかった。それで、王立協会でやった講演は一八二三年にブランド教授の代理をした時に始って、同一八六二年に至る三十九年の長い間に亘った。かく名高くなったのは天禀てんぴんにもよるであろうが、また熱心と熟練にもよること少なくない。初めにデビーの講演を聴いたときから、かかる点がうまいというような事まで観察しておった。後に王立協会に入ってから数週を経て、友人アボットに送った手紙に、講堂の事から講師の態度の事まで細かく論じた位で、常に注意を怠らなかった。
それから市科学会で講演するようになってから、スマートの雄弁術の講義を聴きに行き、その後(一八二三年)には一回、半ギニー(十円五十銭)の謝礼を出して単独に稽古をつけてもらった。そればかりでなく、ファラデー自身の講演をスマートにきいてもらって、批評を受けたこともある。但し、ファラデーの講演振りは雄弁術で教えるような人工的の所にはかぶれなくて、活気に満ちていた。
ファラデーの書いた物の中にも、
「決して句を繰り返すな。
「決して修整するために跡に戻るな。
「ちょっと、ある言葉を忘れても、チェッチェッとか、エーエーとか言わず、しばらく待っておれば、すぐに続きを思い出すものだ。こうすると、悪い習慣がつかないで、すらすらと出るようになる。
「決して他人の言うてくれる批評を疑うな。」
姪のライド嬢はしばらくファラデーの所に厄介やっかいになっていたが、その話に、「マルガース君はいつも朝の講演を聴きに来る。これはファラデーの話し方のまずい所や、発音の悪い所を見出すためで、ファラデーはその通り全部訂正はしないが、しかし引きつづいて遠慮なく注意してくれというていた。」
ファラデーは前もって「ゆっくり」と書いた紙を作って置いて、講演が少し速くなり過ぎると思うと、助手のアンデルソンが傍から見せる。また「時間」と書いたのを作って置いて、講演の終るべき時間が近づくと、見せて注意するというようにしたこともある。
よく雛形を持ち出して説明をした。雛形は紙や木で作ったこともあるが、馬鈴薯を切って作ったこともある。
晩年の時代

四二 一日中の暮し
ファラデーの一生は冒険もなく変化もない。年と共に発見もふえれば、名声も高くなるばかりであった。
ファラデーの人となりは極めて単純である。しかしファラデーその人を描き出そうとすると、中々容易でない。種々の方面から眺めて、これを一つにまとめて、始めてファラデーなるものの大概がわかるであろう。
ファラデーの一日のくらしを記すと、八時間眠て、起きるのが午前八時で、朝食をとりてから王立協会内を一とまわりして、ちゃんと整頓しているかを見、それから実験室に降りて行って、穴のたくさんある白いエプロンをつけて、器械の内で働き出す。兵隊上りのアンデルソンという男が侍して、何でも言いつけられた通り(それ以上もしなければ、それ以下もしない)用をする。考えておった事が頭に浮ぶに従って、針金の形を変えたり、磁石をならべたり、電池を取りかえたりする。それで、思い通りの結果が出て来ると、顔に得意の色を浮べる。もし疑わしくなると、額ひたいが曇って来る。考えた事の不充分のために、うまく行かないからで、また新しい工夫をしなければならない。

王立協会内のファラデーの書斎

姪のライド嬢は実験室の隅で、針仕事をしながら、鼠ねずみのように静かにしている。ファラデーは時々うなずいたり、言葉をかけたりする。時によると、ポタシウムの切れを水に浮べてやったり、あるいはこれを焔に入れて紫の光を出して、見せてやったりする。
もし外国の学者でも来て名刺を通ずると、ファラデーは実験を中止し、今まで出た結果をちょっと石盤に書きつけて、階上に来り、親切にいろいろの物を見せる。帰ると、再び実験に取りかかる。
午後二時半に昼食をし、それから書斎にはいる。室には、質朴な家具があり、窓の所にゴムの植木がある。ここで手紙を書いたりする。学会でもある日だと、出かける。帰ると、また実験室に行き、夕方にはやめて階上に来て細君や姪と賭かけ事をしたり、謎をかけ合ったり、もしくはシェクスピアかマコーレーを声高に読む。その中に夕食になる。家族が集まっているので、朝出来なかった礼拝をする。これで、一日が暮れるのである。
夏の夕方には、細君や姪をつれて散歩に出かける。よく動物園に行った。新しく来た動物を見たり、猿がいろいろないたずらをするのを見て喜び、果ては涙ぐむことさえもある。
また金曜日の夕方だと、王立協会の書斎と講堂に行って、万事整頓しているかを見、その夜の講師に挨拶し、友人が来ると、「よくお出で」と言い、講堂では前列の椅子に腰掛け、講師の右手の所に陣取る。講演を聞きながら、時々前にかがみ、講演がすむと、周囲の人々に「ありがとう」とか、「おやすみ」とか言いつつ、細君と一緒に階段を上って自分の部屋に帰る。時には二三の友人と夕食をとる。

王立協会内の講義室におけるファラデーの講演

またファラデー自身が講師だとする。題目は前々から注意して撰み置き、講義の大体は大判洋紙に書き、実験図も入れて、番号まで附けておく。朝の中に覚えよいような順に器械を列べて置く。夕方になると、聴衆はどんどんと来て、満員になる。遅く来た人達は階段の所に腰を掛けたり、大向うの桟敷の後方にまでも立つ。その中にファラデーは、は入って来て、馬蹄形の机の真中に立ち、聴衆がまたと忘れられないような面白い話を始める。
クリスマス前に、小供に講話をする事もある。前の数列は小供で一杯。その後にはファラデーの友人や学者が来る。その中にサー・ジェームス・サウスも来る。聾であるが、小供の嬉しがる顔が見たいからといって来る。ファラデーは鉄瓶とか、ロウソクとかいうような小供の知っている物の話をし、前に考えもつかなかったような面白いことを述べて、それから終りには何か有益ためになる話をする。
また日曜日には、家族と一緒にレッド・クロッス町のパウル・アレイにある小さい教会に行く。この教会は地下鉄道の停車場が出来たので、今日は無い。午前の説教や何かが済んでから、信者が皆一堂に集って食事をし、午後の礼拝をすまして帰るのは五時半で、それからは机で何か書きものでもして、早く床につく。ファラデー自身が説教をしたこともある。

四三 病気
一八三九年の終り頃からファラデーの健康は衰えて来て、初めには物忘れがひどくなり、その後は時々眩暈めまいを感ずるようになった。翌年には、医師の勧めで研究をやめた。けれども講演だけは時々していた。これもその翌年からはやめて、全く静養することにした。暇に、紙細工をしたり、曲馬、軽業、芝居、または動物園などに行った。細君はもはや王立協会には住めなくなって、動物園の近い所にでも移転しなければならないかと心配した程であった。
それからスイスへも旅行した。細君とその兄のジョージ・バーナードか、さなくば姪のライド嬢が一緒に行った。しかし細君の熱心な介抱により段々と良くなり、一八四四年には旧もとの体になって、また研究にとりかかった。
スイスへ旅行した折りには、ワルメールという所で、田舎家を借りていたこともある。窓からはチェリーの木の上に鳥の巣が見える。母鳥が雛にはぐくむのも見える。小羊が母を探して、戸の外までやって来る。ファラデーは日の昇るのを見るのが好きなので、姪に起してくれといい、姪はペイウェルベイの上が明るうなると、下の室へ降りて行き、戸を叩いて起した。ファラデーは入り日を見るのも好きで、野の草花の咲き乱れた山の上に長い夏の太陽の光が薄れ行き、夕ぐれになるとアッパーデールからの寺の鐘が聞えて来る。あたりが全く暗くなる頃までも眺めていた。
バイロンのチャイルド・ハロルドにあるレーマン湖のくだりや、またカレッヂの「モン・ブランの讃美」を読むのも好んだ。読んで感ずると、声にも現われ眼にも涙を出すという風であった。

四四 保養
ちょっと、休養に出かける場合にはブライトンに行く。クリスマス前にも度々行ったし、四月の復活祭にも行った。海の風を吸いに行くのである。
しかしちょっと、気を紛らそうという時には、旅行しないで、アイバンホーや巌窟王を読んだり、有名なキーツの芝居を見に行ったり、ヂェンニイ・リンドの歌うのを聞きに行った。
時々は用事と保養とを兼ねて旅行もした。英国科学奨励会ブリチシュ、アソシェーションにもよく出席した。一八三七年リバープールにこのアソシェーションが開催された時には、化学部の部長をした。その後、会長になれといわれたこともあるが、辞退した。一八五一年イプスウイッチの会でチンダルに逢った。
晩年には灯台の調査を頼まれたので、田舎へ旅行したこともある。

四五 しなかった事
人の一生を知るには、その人のなした仕事を知るだけでは十分でない。反対に、その人のことさらしなかった事もまた知るの必要がある。人の働く力には限りがあるから、自分に適しない事には力を費さないのが賢いし、さらにまた一歩進んで、自分になし得る仕事の中でも、特によく出来ることにのみ全力を集注するのが、さらに賢いというべきであろう。
ファラデーは政治や社会的の事柄には、全く手を出さなかった。若い時に欧洲大陸を旅行した折りの手帳にも、一八一五年三月七日の条に、「ボナパルトが、再び自由を得た(すなわちナポレオン一世がエルバ島を脱出したことを指す)由なるも、自分は政治家でないから別に心配もしない。しかし、多分欧洲の時局に大影響があるだろう」と書いた。後には、やや保守党に傾いた意見を懐いだいておったらしい。
ファラデーのような人で、不思議に思われるのは、博愛事業にも関係しなかったことである。もちろん個人としての慈恵はした。
また後半生には、科学上の学会にも出席しない。委員にもならない。これは一つは議論に加わって、感情に走るのを好まなかったためでもあろうが、主として自分の発見に全力を集めるためであった。
食事に招かれても行かないし、たとい晩餐に出席しても、直きに帰って来るという風であった。旅行先でも、箇人の御馳走は断わった。訪問を受ける時間にも制限をもうけた。これでいかに自分の力を発見に集中したかが窺うかがわれる。
田園生活や、文学美術の事にも時間を費さない。鳥や獣や花を眺めるのは好きだったが、さてこれを自分で飼ったり作ったりして見ようとはしなかった。音楽も好きではあったが、研究している間は少しも音を立てさせなかった。

四六 訪問と招待
時々、訪問者があるので困った。ある朝、若い人が来て、新研究をお話し致したいと、さも大発見をしたようにいうので、ファラデーは面会して、話をきいた。やがて書棚にあるリーの叢書そうしょの一冊をとって、
「君の発見はこの本に出てはいないか。調べたのかね。」
「いや、まだです。」
ファラデーは頁ページをくって、
「これは四十年も前に判っている事ではないか。このようなことで、私の時間をつぶさないようにしてくれ給え。」
しかし、誰か新しい発見でもすると、ファラデーは人を招いて、これを見せたものだ。発見の喜びを他人に分つというつもりである。キルヒホッフがスペクトル分析法を発見したときにも、ファラデーはいろいろな人に実験して見せた。ブルデット・クート男爵夫人に出した手紙には、
五月十七日、金曜日、
拝啓明日四時にマックス・ミュラー氏の講演すみし後、サー・ヘンリー・ホーランドに近頃ミューニッヒより到着せる器械をもって、ブンゼンおよびキルヒホッフ両氏の発見したるスペクトルの分析を御目にかくるはずに相なりおり候。バルロー君も来会せらるべく、氏よりして貴男爵夫人もその時刻を知りたき御思召の由承わり申候。もし学究の仕事と生活とを御了知遊ばされたき御思召に有之、かつ実験は小生室にて御覧に入るるため、狭き階段を上り給うの労を御厭い無之候わば、是非御来臨願い度と存候。誠に実験は理解力のある以外の者には興味無之ものに御座候。以上。
エム、ファラデー

四七 質問
時々は手紙で質問し、返事を乞うた人もある。この中で面白いのは、ある囚人のよこした手紙である。
「貴下のなされし科学上の大発見を学びおれば、余は禁囚の身の悲しみをも忘れ、また光陰の過ぐるも知らず候」という書き出しで「水の下、地の下で、火薬に点火し得るごとき火花を生ずるに、最も簡単なる電池の組み合わせはいかにすべきや。従来用いしものはウォーラストン氏の原理によりて作れる三十ないし四十個の電池なるも、これにては大に過ぎ、郊外にて用うるには不便に候。これと同様の働きを二個の螺旋らせんにてはなし得まじく候や。もしなし得るものとせば、その大さは幾何に候や」というので、つまり科学を戦争に応用せんとするのである。
囚人でありながら、こんな事を考えていたのはそもそも誰であったろうか。後にナポレオン三世になったルイ・ナポレオンその人で、その頃はハムの城砦じょうさいに囚われておったのだ。
ナポレオンはその後にも「鉛のように軟やわらかくて、しかも鎔解しにくい合金は出来まいか。」という質問をよこしたこともある。「実験に入要な費用は別に払うから」ということまで、附記して来た。
ファラデーの返事は大抵簡単明亮であった。

四八 ローヤル・ソサイテーの会長
英国で科学者のもっとも名誉とする位置はローヤル・ソサイテーの会長である。ファラデーは勧められたが、辞退してならなかった。
一八五七年、ロッテスレー男爵が会長をやめるとき、委員会ではファラデーを会長に推選することになり、ロッテスレー男、グローブ、ガシオットが委員の代表者となって、ファラデーに会長就任を勧めにやって来た。皆が最善ベストをつくして勧めたし、また多数の科学者も均しくこれを希望しておった。
ファラデーは元来、物事を即決する気風の人で、自分もこれに気づいているので、重要の事はいつも考慮する時間を置いて、しかる後に決定するというのを恒例にした。この時も恒例に従いて、返事は明日ということで、委員の代表者をかえした。
翌朝、チンダルがファラデーの所に入って来ながら、「どうも心配です。」という。ファラデーは「何にが」という。「いや、昨日来た委員連の希望を御諾ききにならないのではあるまいか。それが心配で。」と返事した。ファラデーは「そんな責任の重い位置につくことを勧めてくれるな。」という。チンダルは「いや、私はもちろんお勧めもするし、またこれを御受けになるのが義務と思います。」というた。
ファラデーは物事をやす受け合いをすることの出来ない性質で、やり出せば充分にやらねば気がすまないし、さもなければ初めからやらないという流儀の人である。それで当時のローヤル・ソサイテーの組織等について多少満足しておらない点があった。それゆえ、会長になれば必ず一と悶着もんちゃく起すにきまっているので、「おいそれ」と会長にはならなかったのだ。もちろん、改革に着手するとなれば、ファラデー側の賛成者もあることは確なのである。そんな事で、チンダルは大いに勧めては見た。そのうちにファラデー夫人もはいって来た。これは夫の意見に賛成した。結局ファラデーは辞退してサー・ベンジャミン・ブロージーが会長になった。
かような理由で、ファラデーは会長にはならなかったが、今日でもローヤル・ソサイテーには委員連がファラデーに会長就任を勧めている所の油画がかけてある。ファラデーになって見れば、会長になったからというて別に名誉が加わりもしなかったろう。却かえってローヤル・ソサイテーがファラデーを会長になし得なかったことを残り惜しく思うだけである。また王立協会でも、会長のノーサムバーランド侯が死んだとき、幹事連はファラデーを会長に推選したが、この方も断った。英国科学奨励会の会長にもならなかった。

四九 研究と著書
ファラデーの研究は非常に多い。題目だけで百五十八で、種々の雑誌や記事に発表してある。短い物も多いが、しかし、そういうものの中にも重要なのがある。また金曜講演の要点を書き取ったような物もその中にある。しかし非常に注意して行うた実験もある。
ことに電気に関する実験的研究の約三十篇の論文は、その発表も二十六年間にわたり、後で三巻の本にまとめた。人間の事業の最高記念物、新発見の智識の庫として、非常に貴ばれたもので、これを精読して、自分の発見の端緒いとぐちを得た人が、どの位あるかわからない。マックスウェルはこれから光の電磁気説を想いついて、理論物理学の大家となり、またエヂソンも面白がって読み耽けり、大発明家となった。
この本は普通の本とは非常に趣きが異っていて、ファラデーが研究するに当って、いろいろに考えをめぐらした順序から、うまく行かなくて失敗におわった実験の事までも、事細かにすっかりと書いてある。これを読めばいかにして研究すべきかということの強い指針を読者に与えるし、そのうまく行かなかった実験を繰りかえして、発見をした人も少くない。この両方面から見て、非常に貴い本である。
電磁気以外の研究は「化学および物理学の実験研究」という本に、集めてある。また「化学の手細工」という本を出版したが、これは時勢遅れになったというので、後には絶版にしてしまった。それから、クリスマス講演の中で、「ロウソクの化学史」と、「天然の種々の力とその相互の関係」とが出版されている。いずれも六回の講演で、クルークスの手により出版された。

五〇 名誉
ファラデーの名声が高くなるにつれて、諸方の学会や大学から名誉の称号を贈って来た。一八二三年にパリのアカデミーの会員になったのを初めとし、同六四年にイタリアネープルのアカデミーの会員になったのを終りとし、その中、一八二四年にローヤル・ソサイテーの会員になったのだけは、自分で望んだのだが、この他のはみな先方からくれたので、合計九十有六。その中にはオックスフォード大学の D.C.L. とキャンブリッジ大学の L.L.D. というようなのもあり、ロンドン大学の評議員というのもあり、キャバリヤー・プルシアン・オーダー・オブ・メリットというようなのや、パリのアカデミーの名誉外国会員というようなものもある。ローヤル・ソサイテーの最高の賞牌のコプレー賞も二度までもらった。
これらの名誉をファラデーは非常に重んじたもので、特別に箱をつくりて、その内に入れて索引までも附けて置いた。

五一 宗教
ファラデーの信じておったサンデマン宗の事については前にも述べたが、一八四〇年から四四年までの間、ファラデーはこの教会の長老であった。それが四四年に長老たることも会員たることもやめられたが、その委細は、ある日曜日にファラデーが欠席をした。どうしたかと聞かれたら、ヴィクトリア女王に正餐に招かれたと答えて、正当の理由であるごとくに弁解した。これが不都合だというので、やめられたのである。しかしこの後も引きつづき熱心に礼拝には来ていた。そのため、後にはまた会員になり、一八六〇年からふたたび長老となった。説教したことも度々ある。ファラデーの説教だというので、わざわざ聴きに行った人もある。
しかしファラデー位、講演の上手にやれる人はあるまいが、ファラデーよりもっと効目ききめがあるように説教の出来る者は無数にあるという評で、講演の時の熱心な活いきいきとした態度は全々無く、ただ信心深い真面目まじめという一点張りで、説くことも新旧約聖書のあちらこちらから引きぬいたもので、よく聖書をあんなに覚えていたものだと、感心した人もある。
ファラデーは神がこの世界を支配することに関して、系統的に考えたことは無いらしい。ニュートンやカントはそれを考えたのであるが。ファラデーのやり方は、科学と宗教との間に判然と境界を立てて別物にしてしまい、科学において用うる批評や論難は、宗教に向って一切用いないという流儀であったらしい。ファラデーの信じた宗教では、聖書のみが神の教というので、それに何にも附加せず、またそれより何にも減じないというのであった。ファラデーは新旧約聖書の出版の時代とか、訳者とかについて、一つも誤りなしと信じ[#「、一つも誤りなしと信じ」は底本では「、一つも誤りなしと信じ」]、他の古い記録と比較しようとも考えなかった[#「、他の古い記録と比較しようとも考えなかった」は底本では「、他の古い記録と比較しようとも考えなかった」]。
ファラデーの態度をチンダルが鋭く批評したのに、「ファラデーは礼拝堂の戸は開けっぱなしで(open)寛大にして置くが、実験室の戸は出入がやかましく厳重である(closed)」と言った。これは酷評ではあるが、その通りである。
ファラデーは非常に慈なさけ深い人で、よく施しをした。どういう風に、またどの位したのか、さすがに筆まめな彼れもそればかりは書いて置かなかった。多分貧しい老人とか、病人とかに恵んだものらしく、その金額も年に数百ポンド(数千円)にのぼったことと思われる。なぜかというと、ファラデーは年に一千ポンド近くも収入があったが、家庭で費したのはこの半分くらいとしか思われぬし、別に貯金もしなかったからだ。ファラデーの頃には、グリニッチの天文台長の収入が年に一千ポンド位。また近頃では、欧洲戦争前の大学教授の収入が、やはりその位であった。

五二 狐狗狸こくりの研究
一八五三年には、ファラデーは妙な事に係かかり合って、狐狗狸こくりの研究をし、七月二日の雑誌アセニウムにその結果を公にした。
狐狗狸では、数人が手を机の上に載せていると、机が自ら動き出すのだ(いわゆる Table-turning)。しかしファラデーは机と手との間にある廻転する器械を入れて、誰れなりと手に力を加えて机を動さんとすると、すぐこの器械に感ずるようにした。これを入れてから、机は動かなくなった。
ファラデーのこの器械は今日も残っている。この顛末がタイムスの紙上にも出たが、大分反対論があり、女詩人のブラウニング等も反対者の一人であった。その頃ホームという有名な男の巫子みこがあったが、ファラデーは面会を断わった。理由は、時間つぶしだというのであった。
ファラデーの風ふうは、推理でやるよりは直覚するという方であって、むしろ科学的よりは芸術的であった。しかしテニズンとか、ブラウニング等とは交際もしなかったので、この点では同じ科学者でも、ダーウィンやハックスレー等とは、大いに趣きを異にしていた。

五三 晩年
一八五八年にはアルバート親王の提議で、ヴィクトリア女王はロンドン郊外ハンプトンコートの離宮の近くで緑の野原の見える小さな一邸をファラデーに賜わった。ファラデーは初めには御受けを躊躇した。これは家の修理等に金がかかりはせぬかと気づいたためであった。これを聴かれて、女王は家の内外を全部修理された。そこでファラデーは移転した。しかし、王立協会の室はまだそのまま占領しておって、時々やって来た。
クリスマスの講演も一八六〇年のが最終となり、ファラデーの健康は段々と衰えて、翌年十月には王立協会の教授もやめて、単に管理人となった。時に七十歳である。このとき、ファラデーが王立協会の幹事に送った手紙には、
「一八一三年に協会に入ってから今や四十九年になる。その間、サー・デビーと大陸に旅行したちょっとの間が不在であっただけで、引きつづき永々ながなが御世話になりました。その間、貴下の御親切により、また協会の御蔭によって、幸福に暮せましたので、私はまず第一に神様に謝し、次には貴下並びに貴下の前任者に厚く御礼を申し上げねばならぬ。自分の生涯は幸福であり、また自分の希望通りであった。それゆえ、協会へも相当に御礼をなし、科学にも相当の効果を収めようと心がけておりました。が、初めの中は準備時代であり、思うままにならぬ中に、もはや老衰の境に入りました。」
というようなことが書いてある。
翌一八六二年三月十二日が実にこの大研究家の最終の研究日であった。またその年の六月二十日が金曜講演の最後であった。その時の演題はジーメンスのガス炉というのであったが、さすがのファラデーも力の弱ったことが、ありありと見えて、いかにも悲しげに満ちておった。ファラデー自身も、これが最後の講演だと、心密かに期していたそうである。この後も、人のする講演を聴きに行ったことはある。翌一八六三年にはロンドン大学の評議員をやめ同六四年には教会の長老をやめ、六五年には王立協会の管理人もやめて、長らく棲んでいた部屋も返してしまい、実験室も片づけた。この時七十四歳。後任にはチンダルがなった。もっともチンダルは既に一八五四年から物理学の教授にはなっておった。
それでも、まだ灯台等の調査は止めずにやっておったが、トリニテー・ハウスは商務省とも相談の上、この調査はやめても、年二百ポンドの俸給はそのままという希望で、サー・フレデリック・アローが使いにやって来た。アローは口を酸すっぱくして、いろいろ説いたが、どうしてもファラデーに俸給を受け取らせることが出来なかった。ファラデーは片手にサー・アローの手を、片手にチンダルの手を取って、全部をチンダルに譲ることにした。

五四 終焉
ファラデーの心身は次第に衰弱して来た。若い時分から悪かった記憶は著しく悪るくなり、他の感覚もまた鈍って来、一八六五年から六六年と段々にひどくなるばかりで、細君と姪のジェン・バーナードとが親切に介抱しておった。後には、自分で自由に動けないようになり、それに知覚も全く魯鈍になって耄碌し、何事をも言わず、何事にも注意しないで、ただ椅子によりかかっていた。西向きの窓の所で、ぼんやりと沈み行く夕日を眺めていることがよくあった。ある日、細君が空に美しい虹が見えると言ったら、その時ばかりは、残りの雨の降りかかるのもかまわず、窓から顔をさし出して、嬉しそうに虹を眺めながら、「神様は天に善行の証あかしを示した」といった。
終に一八六七年八月二十五日に、安楽椅子によりかかったまま、何の苦しみもなく眠るがごとくこの世を去った。遺志により、葬式は極めて簡素に行われ、また彼の属していた教会の習慣により、ごく静粛に、親族だけが集って、ハイゲートの墓地に葬った。丁度、夏の暑い盛りであったので、友人達もロンドン近くにいる者は少なく、ただグラハム教授外一、二人会葬したばかりであった。
墓標にも簡単に、
一七九一年九月二十二日生れ
ミケル・ファラデー
一八六七年八月二十五日死す

日輪が静に地平線より落ち行きて、始めて人の心に沈み行く日の光の名残が惜しまれる。せめて後の世に何なりと記念の物を残そうということが心に浮ぶ。
ファラデーが死んでから、記念のため化学会では、「ファラデー講師」なるものをつくり、パリにはファラデー町が出来、ロンドンにもファラデー学会が出来た。グラッドストーンは伝を書いた。チンダルも伝を書いた。またベンス・ジョンスは手紙を集めて出版し、その後シルベナス・トンプソンも伝を書いた。

五五 外見
ファラデーに、ほんとうによく似た写真や、肖像画は無いといわれている。これは写真や画の出来できが悪いという意味ではないので、ファラデーの顔の生き生きして、絶えず活動せるのを表わし得ないというためなそうだ。
この本に入れてあるのは五十歳位の時の写真で、ファラデーの働き盛りの時代のものである。その少し後に、チンダル教授の書いたのには、「ファラデーは身の丈たけは中位より少し低い。よく整っていて、活溌で、顔の様子が非常に活き活きしている。頭の形が変っていて、前額から後頭までの距離が非常に長く、帽子はいつも特別に注文した。初めは頭髪が褐色で、ちぢれておったが、後には白くなった。真中から分けて、下げていた。」
晩年に、病後のファラデーの講演を聴いたポロック夫人の書いたものによると、「髪の毛も白く長くなり、顔も長く、眼も以前は火のように輝いていたがそうでなくなった。顔つきは、画や像にあるネルソンのに何となく似ているようだ。」

ファラデーの生涯を書き終るに当り、王立協会の設立や、その他関係の深かった一、二の人について、ちょっと書き添えて置こう。

附記
ルムフォード伯
名はベンヂャミン・トンプソン。ベンヂャミン・フランクリンと同名であり、時代も近いし、両方ともアメリカのボストンに近い所で生れた。ルムフォードの生れたのは一七五三年三月二十六日で、父は早く死んだが、幼い時から科学や数学が好きでかつ上手であった。コンコード(またルムフォードとも呼ぶ)から教師に呼ばれたのが十九歳の時で、風采が美しかったが、金持のロルフ大佐の寡婦かふと結婚した。このとき夫人は三十三歳である。その中にアメリカ独立戦争が起ったが、知事のウエントオースはルムフォードの馬に乗った姿を見て気に入り、一躍して少佐にした。しかし友人から猜そねまれて、独立軍に忠実でないという嫌疑を受け、調べられたりしたので、終ついに一七七五年に英国に逃げて来て(妻子は置いたまま)、殖民省の官吏になった。またとんとん拍子で出世して、四年の内には次官にまで昇進した。この間に科学の研究をし、ことに火薬の研究が有名で、ローヤル・ソサイテーの会員にも推選された。一七八二年には、大佐に任命されて、アメリカにおる英国の騎兵隊の総指揮官になり、威風堂々とニューヨルクに繰り込み独立軍と戦いに来た。
しかし、アメリカは独立したので、翌年英国に帰った。うまい事もないので、オーストリアとトルコとの戦争に加わって、一と旗あげようと思い立ち、出かけたが、途中でストラスブルグを過ぐる時、ババリアのマキシミリアン王子がフランスの大将という資格で観兵式をやっている所を通りかかった。マキシミリアンはルムフォードの雄々しい姿を見て呼びとめ、話をしている裡うちに、アメリカの独立戦争の時に対手方であったこともわかり、マキシミリアンは叔父の選挙公にあてた推挙状をくれた。それでババリアに仕えることになり、英国王の許可を受けたが、このとき英国王は彼をナイトに叙した。一七八四年のことで、年は三十一歳であった。それからババリアで、陸軍大臣、警視総監、侍従兼任という格で、軍隊の改革をやる、兵器の改良をやる、貧民の救助をやる、マンハイムやミュンヘンあたりの沼地を開拓するという風で、非常に敏腕を振った。大砲の改良につきて研究していたとき、砲身に孔を開ける際に熱を出すのを見て、仕事より熱の生ずることを言い出したのは有名な発見であるが、一方では、貧民は富ましてしかる後に教うべしというので、暖炉の改良、食物の改良をもやった。功によりて一七九一年には、三十八歳で神聖ローマ帝国の伯爵になり、出身地の名をとって、ルムフォード伯と呼ぶことになった。一時、病気の重かったときにも、貧民が多勢で教会に行って全快の御祈りをするというような、非常な人望であった。十一年振りで英国に帰ったが、その時もアイルランドに行って、貧民の生活状態を視察した。アメリカに置いて来た十九歳の娘を呼んで、共にミュンヘンにつれ帰ったが、丁度フランスオーストリアの戦争で、選挙公はミュンヘンから逃げ出したので、ルムフォードが選挙公の代理として総指揮官となり、ミュンヘンを防ぎ、中立を厳守して、フランスオーストリア両軍とも市内に入れさせなかった。
それから、ロンドンへ全権公使として行くことになったが、英国王が承知しない。結局辞職してロンドンへ来た。おもな目的は王立協会の設立で、貧民の生活改善のため、煖房とか料理法の改良とか、主として熱に関した応用を研究しようというつもりであった。一七九九年に約五十枚にわたる趣意書を発表し、会員組織にして、五十ギニーの寄附金を出した者は永久会員として講演に列する入場券二枚をもらい、十ギニーの者は終身会員で入場券一枚、二ギニーの者は一個年会員というようにし、また幹事九名は無給で、投票によることにした。同三月七日にローヤル・ソサイテーの会長たるサー・ジョセフ・バンクスの宅で集ったのが初めで、永久会員も五十八名出来、また幹事なども定り、おもにルムフォード伯とベルナードとが世話をやいた。一八〇〇年一月十三日、国王は免許状に調印され、かつ協会の賛助員となられ、ウインチルシー伯が会長となり、教授にはガーネットが任命され、家を買ったり、器械を備えつけることなどの世話は、ルムフォード伯がやった。
またルムフォード伯はデビーの評判を聞き、ロンドンに招いて数回面会し、一八〇一年二月十六日、化学の助教授、化学実験所長兼王立協会記事の副編纂係とし、年俸百ギニーで雇い、講演は三月十一日より開始とした。その後ガーネットは辞したので、デビーは化学の教授になった。また同年八月三日、物理学の教授、王立協会記事編纂係兼実験場の管理人として、トーマス・ヤングを入れた。年俸は三百ギニー。ヤングは講演が上手でなく、二、三年ほどいて辞職したが、光の波動説の大家として、今日までも有名な人である。デビーの方は講演も非常に上手であり、これがため王立協会が有名になり、盛んにもなった。
王立協会もかくして大体出来たので、ルムフォード伯は一八〇三年にパリに行った。フランスで有名な化学者にラボアジェーという人があったが、革命のときに(一七九四 五月八日)断頭台で殺された。その未亡人は三百万フランも財産があり、交際場裡の花であったが、この頃は四十六、七歳で、ルムフォード伯より四つ位若かった。この婦人と心易くなり、ババリアの選挙公の仲介を以て、一八〇五年十月二十四日に結婚した。しかし、二人は折り合いが悪く、四年後にわかれた。この後、ルムフォード伯は自宅に引っ込み勝ちで、ことにラグランヂュの歿後ぼつごは、二、三の友人(ことにキュービエー)と交わっただけで、一八一四年八月二十一日にパリで死んだ。
ルムフォード伯の功業は、ヴィーデンという大将とデビーとを見出した事であると謂われるが、ヤングもまたルムフォードに見出された一人である。
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サー・ハンフリー・デビー

は一七七八年十二月十七日生れで、父は早く死んだが、非常に早熟で、文学にも科学にも秀いで、十七歳の時には、氷の二片を合わせてこすると溶けるのを見て、「熱は物体にあらず」という説を発表した。その後、ある病院の管理をして、「笑気」のことを研究した。ルムフォード伯に招かれて、ロンドンに来たのは一八〇一年、二十三歳の時で、まだ山出しの蛮からであったが、根が才気のはじけた人間であるから、講演振りも直ちに上手になり、その講演には上流の人達が争うて聴きに来るようになり一千人にも上ることがあった。そんな訳で、当時の人々から大層崇拝されるようになった。電池の研究をしたり、電気分解によりポタシウムやソヂウムを発見した。三十四歳のときには既に才名一世に鳴りひびいて、ナイトに叙せられた。その後、間もなくアプリースという才色兼備の金持の寡婦と結婚した。そこで王立協会の教授をやめて、代りにブランドを入れ、自分は単に名誉教授となって、夫人およびファラデーをつれて、大陸に旅行し、帰ってからは、安全灯の発明があり、一八三〇年より七個年の間、ローヤル・ソサイテーの会長になった。しかし、健康が良くないので、再び大陸に旅行したが夫人は同行を承知しなかった。イタリアのローマで一度危篤に陥ったが、ゼネバまで帰ったとき、前に同僚であったヤングの死去の報を聞いたが、その夜自分も中風で死んだ。一八二九年五月二十九日である。享年五十一。
詩人カレッヂが評していうのに、「デビーは一流の化学者にならなくとも、一流の詩人になったであろう」と。旅行中に詩も作ったし、「旅中の慰め」という散文もある。
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トーマス・ヤング

は一七七三年七月十三日生れで、十四、五歳のときには、既にオランダ、ギリシャ、フランス、イタリア、ヘブライ、ペルシア、アラビア語を読んだ。ドイツのゲッチンゲンや、英国のキャンブリッジで医学を修めた。一八〇〇年には光の波動説を発表し、翌一八〇一年からルムフォード伯に招かれて王立協会に来たが、二年もしないでやめた。理由は、医学の方面の勉強が遅れるからというので、一八〇三年医学博士 M.B. になり、後またセント・ジョージ病院の医師となった。王立協会におった時期は短かかったが、その間にやった講義録や発表した論文は、いずれも有名なものである。また後には、エジプトの象形文字の研究が有名である。天才というべき人で、一八二九年五月十日に死んだ。
後編 研究

研究の三期

ファラデーの研究は始終を通じて、実に四十四年の永きにわたる。すなわち一八一六年の生石灰の研究を振り出しに、同六〇年より六二年の頃に研究して結果の未定に終った磁気と重力との関係、並びに磁気と光との関係に終る。この間に発表した論文は数多く、題目を列べただけで、数頁にわたる。けれども電気磁気に関する重要なる論文は、「電気の実験研究」と題する三巻の本におさめられ、電気磁気以外のおもなるものは、「化学および物理学の実験研究」と題する一冊の本におさめられている。
今便利のため、この四十四年を三期に分とう。第一期は一八一六年より三〇年に至り、種々の方面の研究をした時期で、後の大発見の準備時代と見るべきもの。次は一八三一年より三九年に至る間で、電磁気学上における重大の発見に、続ぐに重大の発見を以てした黄金時代とも見るべきもの。遂ついに健康を害して、しばらく休養するの止むなきに至った。再び健康を回復して研究に従事したる、一八四四年より六〇年を第三期とし、この間に磁気と光との関係並びに反磁性の大発見をなした。

第一期の研究
第一期に関する研究の大要を、年を逐うて述べよう。

一 諸研究
一八一六年に生石灰を分析して、その結果を「科学四季雑誌」に出した。余り重要なものではないが、始めてという意味で、「化学および物理学の実験研究」におさめてある。これより二、三年間は、主としてデビーの研究を助けたり、デビーやブランドの講義の準備に忙殺されていたが、多少の研究は出した。すなわち、毛細管よりガスの流出することに関するもの、発音焔に関する実験、シリウム並びにヴェスチウムの分析等である。一八一九年から翌二〇年にかけては、錆びない鋼鉄を造ろうとし、これに白金、金、銀、ニッケル等のごく少量を加えて、いろいろ試験を施したが、結果は不成功に終り、ただ知り得たのは、鋼鉄は僅少の混合物によって、その性質に多大の変化を生ずるということに過ぎなかった。
この外、塩素と炭素との化合物や、ヨウ素と炭素と水素との化合物について研究し、また木炭より黒鉛をつくる研究もやった。

二 電磁気廻転
一八二〇年は電気学上特筆すべき事で、すなわちエールステッドが電流によって磁針の振れることを発見した年である。
ボルタが電流を発見してから、電流と磁気との間に何等かの関係あるべきことを考えた人は多かったが、みな成功しなかった。エールステッドは他の人よりも、強い電流の通れる針金を取って実験したため、この発見をしたのである。そこで電流の通れる針金を磁針に平行にして、その上方に置いたり、下方に置いたり、また針金を磁針に直角にして、上に置いたり、下に置いたりして、種々研究した結果、終ついに「電気の作用は廻わすように働く」という定律を見出した。今日より見れば、極めて不充分な言い表わし方ではあるが、とにかく、偉大な発見であった。
デビーもこの発見の記事を読んで、早速実験に取りかかり、電流の通れる針金に横に鉄粉の附着することを確めた。
この時代は、ニュートンの引力説が全盛の時代であったから、電流が己おのれの方へ直接に働くことなく、己れと直角の方向へ働いて、横に磁針をまげるということは、余程奇妙に感ぜられたものと見える。
翌一八二一年は、ファラデーが結婚した年であるが、また一方においては、電磁気廻転の実験に成功した年でもある。初めウォーラストンは、電流の通ずる針金のあるときは、磁極をこれに近づくれば、針金は自己の軸のまわりで廻転を始めるだろうと考えて、実験したが、成功しなかった。
その頃、ファラデーは電磁気の作用の歴史を某雑誌に出しつつあった関係上、それらの実験を繰りかえして試み、これが動機となって、次の実験に成功した。すなわち、下端を水銀の皿に入れ、上端を吊してある針金に、電流を通ずると、中央にある磁極のまわりを廻転し出すということである。また反対に電流の通ずる針金の位置を固定し置けば、磁極の方がそのまわりを廻転する。これがウォーラストンの企てた実験に外ならぬという誤解を生じたのだが、実はウォーラストンのとは全く違った実験なのである。
この実験に成功したのは九月三日のことで、この日の出来事は既に前にも記した通りである。
その十二月には、地球の磁力によりて、電流の通れる針金の廻転することをも確かめ、翌年も引きつづきこの方面の研究に没頭した。

三 手帳
以前からファラデーは種々の本を読んだときに、面白いと思うた事を手帳に書き抜いておったが、この頃からは自分の心に浮んだ考をも書き始めることにした。その中に次のようなのがある。
「磁気を電気に変えること。」
「金属の透明なること。」
「太陽の光を金箔に通すこと。」
「二つの金箔を電気の極にして、その間に光を一方から他方へ通すこと。」
これらは、後になってファラデーのやった大発見の種子とも見るべきものである。
後にこの手帳を製本させて、その表紙に書きつけたのに、
「予はこの手帳に負う処が多い。学者は誰れでもかかるものを集め置くのがよい。一年も引きつづいて、やっておれば、左まで面倒とは思わなくなるだろう。」

四 ガスの液化
一八二二年に、ファラデーは塩素ガスを液体にした。デビーは以前から、塩素の固体といわれているものは加水塩化物に外ならずというておった。ファラデーはその分析を始めたが、デビーに見せたら、「ガラス管に封じ込んで圧力を加えたまま、熱して見たらどうか。」と言うた。別に、どうなるだろうという意見は言わなかった。ファラデーはその通りにして熱して見たら、ガラス管の内には、液体が二つ出来た。一つは澄んで水のような物で無色である。他は油のような物であった。デビーの友人のパリスという人が丁度このとき実験室に来合せて、それを見て戯談半分に、「油のついている管を使ったからだ。」と言った。
すぐあとで[#「すぐあとで」は底本では「すぐ あとで」]ファラデーが管を擦こすったら、破れて口が開いたが、油のような液は見えなくなってしまった。これは前にガラス管を熱したとき、塩素のガスが出たが自己の圧力が強かったため、液化してしまい、油のようになっていたのだ。ところが、今管に口が開いて圧力が減じたので、再びもとの塩素ガスになって、飛散してしまったのである。
翌朝パリスはファラデーから次の簡単明瞭な手紙を受け取った。
「貴殿が昨日油だと言われし物は、液体の塩素に相成り申候。 ファラデー」
かく、自己の圧力を使うて液体にする方法は、その後デビーが塩酸に用いて成功し、ファラデーもまたその他のガス体を液化するに用いて成功した。
しかし、これは随分危険な実験で、ファラデーも怪我をしたことがあり、一度はガラスの破片が十三個も眼に入ったことがある。
これらの実験があってから、どのガス体でも、ことにその頃まで永久ガスといわれておったものでも、充分な圧力と冷却を加えれば、液体とも固体ともなることが判明した。
翌一八二四年には、油に熱を加えて分解して、ベンジンを得た。このベンジンからアニリンが採れるので、従って今日のアニリン色素製造の大工業の基礎になった発見というてもよい。
この年、ローヤル・ソサイテーの会員になった。その次第は前に述べた。

五 ガラスの研究
翌年にはローヤル・ソサイテーが、ヘルシェル、ドロンド、並びにファラデーの三人に、光学器械に用うるガラスの研究を依頼した。化学の部分はファラデーが受け持ち、ドロンドは器械屋の立場から試験を行い、ヘルシェルは天文学者なので、光学の方面から調べるというつもりであった。五年間引きつづいて研究をした。
これに聯関して起った事件は、一八二七年にファラデーの実験室に炉を造ったので、その番人に砲兵軍曹のアンデルソンという人を入れた事である。ガラスの研究が済んだ後も、引き続いてファラデーの助手をつとめ、一八六六年に死ぬまでおった。良く手伝いをした人だが、その特長というべきは軍隊式の盲従であった。
アボットの話に、次のような逸話がある。アンデルソンの仕事は炉をいつも同じ温度に保ち、かつ灰の落ちる穴の水を同じ高さに保つのであるが、夕方には仕舞って、何時も家に帰った。ところが、一度ファラデーは帰って宜しいということをすっかり忘れておった。翌朝になって、ファラデーが来て見ると、アンデルソンは一夜中、炉に火を焚き通しにしておった。
この年、デビーの推選で、協会の実験場長に昇進し、従って講義の際に助手をしなくてもよくなった。
一八二九年には、ガラスの研究の結果について、バーカー記念講義をなし、翌年に研究を終って報告を出した。ローヤル・ソサイテーでは、良いガラスは出来たが、もっと大きいのを造ることを考えてくれという注文であったが、ファラデーは他の方面の仕事が急がしいからというて、断わった。それゆえ、大きいレンズを作って、望遠鏡の改良をするというような実用的の成功までには至らなかった。しかし、万事塞翁が馬で、未来の事はちょっとも分らぬものである。ファラデーがこの際作った鉛の硼硅酸塩ガラスがある。重ガラスといわれるものであるが、このガラスの切れを使って、後にファラデーは磁気の光に対する作用や、反磁性を見つけることに成功したのである。それゆえもしこのガラスが無かったならば、この二大発見はもっと遅れた筈だともいえる。
ガラスの研究をやっておった間にも、ファラデーは他の研究もした。すなわち、ナフサリンを硫酸に溶して、サルホ・ナフサリック酸を作ったり、「化学の手細工」という本を書いたりした。
これで、ファラデーの研究の第一期は終った。この間に発表した論文は約六十で、その中六つがおもなもので、発見としては、化学の方で、ベンジンとサルホ酸。物理の方では、塩素の液化と電磁気廻転とである。

第二期の研究
六 磁気から電流
ファラデーは電磁気廻転を発見してから、電流と磁気との関係について、深く想いを潜めておった。もちろん、この関係に想いをめぐらしていた者は、ただにファラデーのみでなく、他にも多くあった。その中で成功した一人はスタルゲヲンで、電磁石の発見をした。鉄心を銅線で巻き、銅線に電流を通ずると、鉄心が磁気を帯ぶるというのである。
かく、電流を用いて磁気を発生することが出来るからには、逆に磁気を用いて電流を起すことも出来そうなものだと、ファラデーは考えた。前に述べた通り、一八二二年にも、ファラデーは手帳に、「磁気を電気に変えること」と書きつけた。一八二四年十二月には、銅線のコイルの内に棒磁石をし込んで、いろいろと実験して見たが、結果は出て来なかった。翌二五年十一月にも、電流を通じた針金が近傍にある他の針金に作用を及ぼしはせぬかと考えて、これを電流計につないで、いろいろ調べて見たが、やはり何の結果も出て来なかった。その後も、あれやこれやとやっては見たが、何時も結果が出て来なかった。
それでも失望しないで、適当な実験の方法を見出せないためだと思って、繰り返し繰り返し考案をめぐらした。伝うる処によれば、この頃ファラデーは、チョッキのかくしに電磁回線の雛形を入れて持っていたそうで、一インチ位の長さの鉄心の周囲に銅線を数回巻きつけたもので、暇があるとこれを取り出しては、眺めていろいろと考えていたそうである。なるほど、銅線と鉄心。一方に電流が流れると他方に磁気を生ずる。反対に出来そうだ。磁気を鉄心に与えて置いたなら、銅線に電流が通りそうである! しかし、これは幾回となくファラデーがやって見て、何時も結果が出なかったことである。
否、ファラデーだけではない。他の学者もこれを行って見たに違いない。ただファラデーのように、結果無しと書いたものが残っておらぬだけだ[#「結果無しと書いたものが残っておらぬだけだ」は底本では「結果無しと書いたものが残っておらぬだげだ」]。多分は、そう書き留めもしなかったろう。フランスのアンペアやフレネルも、いろいろとやったことは確かだが、結果は出なかった。

七 アラゴの発見
ところが、これとは別に次のような発見が一八二四年に公表された。フランスのアラゴは良好な羅針盤を作って、磁針を入れる箱の底に純粋の銅を[#「純粋の銅を」は底本では「鈍粋の銅を」]用いた。普通ならば、磁針をちょっと動すと、数十回も振動してから静止するのだが、この羅針盤では磁針がわずか三、四回振動するだけで、すぐ止まってしまう。アラゴは人に頼んで、底の銅を分析してもらったが、少しも鉄を含んではいなかった。
そこで、アラゴの考えるには、銅が磁針の運動を止めるからには、反対に銅を動したなら、磁針は動き出すだろうと。すなわち、磁針の下にある銅を廻転して見た。果して磁針はこれに伴って廻り出した。なおこの運動は、磁針と銅との間に紙のような物を入れて置いても、少しも影響を受けない。その後には軸に取り附けた銅板の下で磁針を廻すと、上方の銅板が廻り出すことも確かめた。

八 感応電流の発見
ファラデーは一八二八年四月にも、また磁石で電流を起そうと試みたが、これも結果が出なかった。なぜ今までの実験で何時も結果が出なかったのか。原因は磁石も銅線のコイルも動かなかったためである。
一八三一年の夏にまたやり出した。このたびは鉄の環わを取り、その半分に銅線Aを巻き、またこれと少し離れて、他の半分には別の銅線Bを巻き、その先端は磁石の近くに置いた。これは電流の通ったかどうかを、磁石の振れで見るためである。前の銅線Aに電流を通ずると、鉄環は磁気を帯びる。が、この瞬間に銅線Bの近くにある磁石がちょっと動くらしいのを発見した。またAの電流を切ると、その瞬間にも磁石が動くらしいのを見た。
今日、王立協会の玄関の所にファラデーの立像がある。その手に環を持っているのは、今述べた実験の環をあらわしたものだ。それから、この実験に用いた真物ほんものの環も、王立協会になお保存されてある。
それから八月三十日に、実験した手紙には、「この瞬間的の作用がアラゴの実験で銅板の動くときに影響があることに関係あるのではないか。」と書いた。
次に実験したのは九月二十四日で、十個の電池から来る電流を針金に通して磁石を作り、この際に他の針金に何等の作用があるかを調べた。しかし、その作用は充分に認められなかった。それから銅線の長いのや、短いので実験を繰り返し、また電磁石の代りに棒磁石でもやって見たが、やはり作用が充分に認められなかった。
その次に実験したのは十月一日で、ファラデーの手帳には次のごとく書いてある。
「三十六節。四インチ四方の板を十対ずつもつ電池の十組を硫酸、硝酸の混合で電流を起し、次の実験を次の順序に従って行った。
「三十七節。コイルの一つ(二百三フィートの長さの銅線のコイル)を平たいコイルに繋つなぎ、また他のコイルは(前のと同じ長さのコイルで、同種な木の片に巻いた)電池の極につなぐ。この二つのコイルの間に金属の接触のないことは確めて置いた。このとき平たいコイルの所にある磁石が極めて少し動く。しかし、見難いほど少しである。
「三十八節。平たいコイルの代りに、電流計を用いた。そうすると、電池の極へつなぐ時と、切る時とで衝動を感ずるが、これも見難いほどわずかである。電池へつないだ時は一方に動き、切る時は反対の方に動く。平常はこの中間に磁石がいる。
「それゆえに鉄は存在しないが、感応作用があって磁針を動すのである。しかし、それはごく弱いのか、さもなくば充分な時間がない位に瞬間的のものである。多分この後の方であろう。」
その次に実験したのは十月十七日で、磁石を遠ざけたり、近づけたりして、これが針金に感応して電流の生ずるのを確かめた。
これで、以前の実験において結果が出なかったのは、磁石とコイルが共に静止しておったためだと分った。実際、磁石はコイルの傍に十年置いても、百年置いても、電流を生じない。しかし、少しでも動けば、すぐに電流を生ずるのであるから。
その次に実験したのは十月二十八日で、大きな馬蹄形の磁石の極の間で、銅板を廻し、銅板の中心と縁ふちとを針金で電流計につないで置き、電流計が動くのを見た。
その次の実験は十一月四日で、手帳に「銅線の八分の一インチの長さのを磁極と導体との間で動すとき作用あり」と書いた。また針金が「磁気線を切る」と書いた。この磁気線というのは、鉄粉で眼に見られるように現わすことの出来る磁気指力線のことである。なお一歩進んで、この磁気線で感応作用を定量的に表わすことは、ずっと後になって、すなわち一八五一年にファラデーが研究した。

九 結果の発表
かように、約十回の実験で、感応作用が発見された。実験室の手帳を書き直おして、ローヤル・ソサイテーに送り、一八三一年十一月二十四日にその会で読んだ。しかし、印刷物として出したのは、翌年一月で、そのためにあるイタリア人との間に、ちょっと面倒な事件が持ち上った。
この論文は「電気の実験研究」の第一篇におさめてある。実験したときの手帳に書いてあるのと比較すると、文章においてはほとんど逐語的に同じであるが、順序において少し違っている。実験した順序は、今述べたように、磁石から電流を生ずるのを前に試みて、それから電流が他の電流に感応するのを、やったのである。しかし、論文の方には、電流の感応の方を前に書いて、感応の事柄を概説し、しかる後に、磁石の起す感応電流のことを記してある。
この発見をしてから、ファラデーは友人を招いて、その実験を見せた。その際、マヨーの作った歌がある。
ファラデーの磁石を廻りて、
確かに流るるボルタの電気。
さて針金に取り出すその術すべは、
ファラデーが手本にしたのは愛情で、
二人が逢う刹那せつなと別るる刹那、
飛出す火花は電気じゃないか。
ファラデーはローヤル・ソサイテーで、自分の論文を発表してから、英国の南海岸のブライトンへ休養に行った。しかし、すぐ帰って来て、十二月五日には再び研究に取りかかり、同十四日には、地球の磁気を用いて感応電流が生ずるや否やを調べて、良い結果を得た。

一〇 その後の研究
ファラデーは恒例として、実験が成功した場合でも、しない場合でも、出来るだけ作用を強くして実験して見るので、この場合にもその通りにした。初めには、四インチ四方の板が十対ある電池を十個用いた。これで成功はしたのであるが、しかし電池を段々と増して、百個までにした。
百個の電池から来る電流を切ったり、つないだりすると、感応作用は強いので、コイルにつないである電流計の磁針は、四、五回もぐるぐると廻って、なお大きく振動した。
また電流計の代りに、小さい木炭の切れを二つ入れて置くと、木炭の接触の場所で小さい火花が飛ぶ。ファラデーは火花の出るのを電流の存在する証拠と考えておったので、これを見て喜んだ。しかし、まだこの感応電流が電池から来る電流のように、生理的並びに化学的の作用を示すことは見られなかった。
感応作用が発明されると、アラゴの実験はすぐに説明できた。すなわち、銅板に感応で電流を生じ、これが磁針に働いてその運動を止めるのである。
ファラデーはまた、この感応作用を使い、電流を生ずる機械を作ろうとした。初めに作ったのは、直径十二インチ、厚さ五分の一インチの銅板を真鍮の軸で廻し、この板を大きな磁石の極の間に置き、その両極の距離は二分の一インチ位にし、それから銅板の端と軸とから針金を出して、電流を取ったのである。
この後にも、色々な形の機械をこしらえた。板を輪にしたり、または数枚の板を用いたりした。しかし、最後に「余は電気感応に関する新しい事実と関係とを発見することを務めん。電気感応に関する既知のものの応用は止めにしよう。これは他の人が追い追いと[#「他の人が追い追いと」は底本では「他の人が追い追いと」]やるであろうから。」というて止めた。ファラデーはこの後いつも応用がかった事に近づいてくると、そこで止めてしまい、他の新しい方面に向って進んで行った。そんな訳で、専売特許なども一つも取らなかった。

一一 媒介物の作用
この論文の中に、ファラデーは次のような事も書いて置いた。
「針金は磁気よりの感応で電流を生ずるのであるから、恐らくある特別の状態にあるらしい。
「これを友人とも相談して、エレクトロトニックの状態と名づけることにした。
「この状態は、その継続している間は別に電気的作用を示さない。しかし、コイルなり、針金なりが、磁石の方へ近づくか、または遠ざかる場合には、その近づくかまたは遠ざかりつつある間だけ、感応作用によりて、電流が通る。これはその間、エレクトロトニックの状態が高い方なりまたは低い方なりに変るからで、この変化と共に電流の発生が伴うのである。」
元来ファラデーは、物と物とが相離れた所から直接に作用し合うというような考を嫌ったので、引力にしても斥そ力にしても、相離れた所から作用を及ぼすように見えても、実際は中間に在る媒介物の内に起る作用の結果が、この形で現われるものだという風に考えた。
ファラデー自身が前に発見した電磁気廻転にしても、電流の通っている針金の周りの空間が、その電流のためにある作用を受けているとして考えられる。また磁極の周りの空間にも、例の磁気指力線があるとして考えられる。かように、たとい中間には眼に見える物体が無い場合でも、その空間にある媒介物が存在し、これがある状態になっているものと考えられる。それゆえ針金を動かせば感応で電流が生ずる場合にも、またその針金の在る場所は、すでにある特別の状態になっているものと考えらるるので、ファラデーはこれにエレクトロトニックという名称をつけたのである。

一二 その他の研究
一八三二年の正月には、ファラデーは地球の自転のために生ずる電流を調べようというので、十日にケンシントンの公園へ、十二および十三の両日はテームス河のウォータールー橋に行った。これらの実験の結果はすぐにまとめて、ローヤル・ソサイテーで発表し、後に「電気の実験研究」の第二篇にした。
話が前に戻るが、一八三一年に電気感応の大発見をしたときに、ファラデーはまだ内職の化学分析をやっておったし、十一月まではローヤル・ソサイテーの評議員でもあったが、この外にもなお毛色の少し変った研究をしておった。
すなわち、振動する板面に関する論文と、光学上の錯覚の論文とを出した。前のは、振動する板の上に細粉を撒いて置くと、砂のような重いものは面上の振動のない所に集り、これに反して、軽いリコポジウムのような物は、振動の最も強い所に集る。ファラデーはこの理由として、運動の激しい所には小さい渦動が出来て、軽い粉はこれに巻き込まれるためだということを明かにした。また後の論文は、廻転せる車輪の歯の間から物を見るような場合に起る錯覚の議論で、今日の活動写真の基礎を開いたともいえる。
翌一八三二年にも、ファラデーは続いて種々の研究をした。静電気や、動物電気や、感応によりて生ずる電気。これらの電気はいずれも電池より出る電流と同様に化学作用をすることを確かめたのを手初めとして、どの電気も全く同一のものなることを確かめた。今日では自明の事のように思われるが、その頃ではこれも重要な結果であった。これは一八三三年一月に発表したが、「電気の実験研究」の第三篇になっている。

一三 電気分解
次にファラデーの取りかかった研究は、電流の伝導の問題であった。
水は[#「 水は」は底本では「水は」]電流を導くが、それが固体になって氷となると、電流を導かない。これから想いついて、ある固体とそれの溶解して液体となった場合とでは、電流の伝導にどれだけ違いが起るかを調べた。その結果は、金属だと[#「金属だと」は底本では「金属だと」]、固体のときでも液体のときでも、よく伝導してその模様に変りはない。脂肪だと、固体のときでも液体のときでも、電流を導かない。その他の物体では、固体だと電流を伝導しないが、液体になると伝導する。塩化鉛とか、塩化銀とかいうような化合物は、みなこれに属する。かつ液体になっていて、電流を伝導する場合には、その物が分解して電極に集ることも確かめられた。これらの結果は一八三三年四月に発表した。(「電気の実験研究」の第四篇)
ファラデーはなおも研究をつづけて、一定量の電気が同じ液体内を通る場合には、いつも同じだけの作用をすることを確かめた。また液体が分解して電極に集るのは、電極に特別の作用があって、液体の内から物体を引きつけるためではない。物体が液体になりているとき、既に二種の物に分解しているので、電流の通るときにその方向と、反対の方向とに流れ動くため、電極に集るのであることを確かめた。これは一八三三年六月に発表した。(「電気の実験研究」の[#「「電気の実験研究」の」は底本では「「電気の実験研究の」の」]第五篇)
次に別種の問題に着手し、金属がガス体の化合をひき起すことを研究した。これは一八三四年正月に発表した。(「電気の実験研究」の第六篇)
その年の正月の終りから二月にかけて、電気分解に関する大発見が発表された。それは「電気の実験研究」の第七篇になっているが、まずファラデーは電池の電極を、単に電流の入り口と出口に過ぎないからとて、アノード(昇り道)およびカソード(降り道)という名称をつけ、また液体内で分解している物に、アニオン(昇り行く物)およびカチオン(降り行く物)という名前をつけた。
ファラデーは新しい発見をなし、命名の必要を感ずると、当時博学者として有名であったホェーウェルに相談するを例とした。上の命名もこのホェーウェルが案出したものである。
次に、電流の強さを水の電気分解を用いて測定することにした。これで電流計が出来た。そこで一定量の電気を用いて、種々の液体を分解して電極に現われ来る分量を測定した。これで電気分解の定律を発見した。
ファラデーの書いた中には、「電極に現われて来る割合を表わす数を、電気化学当量と呼ぶことにする。しからば水素、酸素、塩素、ヨウ素、鉛、錫はイオンで、前の三つはアニオン。後の三つはカチオンである。その電気化学当量はほとんど一、八、三六、一二五、一〇四、五八である。」
かくして、今日ファラデーの定律と呼ばれている電気分解の定律は発見された。
次にこの定律を電池に応用した結果を一八三四年六月に発表した。(「電気の実験研究」の第七篇)
これにより再び感応電流の研究にもどり、電流を切るときに生ずる火花から電流が自己感応をすることを発見した。これは同年の十一月十三日で、翌日次の様に書いた。「電流の各部分は感応によりて同一の電流の他の部分にも作用し、かつ同一の針金にも、また同一の針金の同一の部分にも作用する」と。
これらは一八三四年末にまとめて、翌年一月に発表し、「電気の実験研究」の第九篇になっている。
それからまた電池の研究に戻った。結果は同年六月に発表した。(「電気の実験研究」の第十篇)

一四 静電気の研究
かように、初めから満五年にもならない間に、これだけの大発見が続いて出たのは、実に驚くの外はない。そのためもあろうが、ファラデーは幾分元気が衰えて来たように見えた。それゆえ以前ほどの勢いは無くなったが、それでもまだ静電気に関する大発見をした。
すなわち、一八三五年には静電気の研究に取りかかり、静電気の感応も中間の媒介物によるのであろうと思って、調べ出したが、中途でフッ素の研究に変り、夏になるとスイスに旅行したりして休養し、前後八個月ばかりも中断してから再び静電気の研究に戻った。
「先ず電気は導体の表面に在るのか、または導体と接する媒介物(絶縁物)の表面に在るのか」という問題から始めて、ガラスのような物を取り、正負電気の間に置いたとして、「感応の現象があるから、電気は導体の方には無く、かえって媒介物の方にあるのだ」と書いた。十二月にはまたフッ素を研究しかけたが、断然止めようと決心し、その四日からは静電気のみの研究に没頭した。最初は静電気の起す作用を、電気分解のときに電流の流れ行くのに較くらべて考えておったが、数日後には磁気が指力線に沿うて働くのと同様だと考えついて、
「空気中における感応は、ある線に沿うて起るので、多分実験上、見出し得るだろう」と書き、五日過ぎてからは、「電気は空気、ガラス等にあっては、みな両極性を有して存在する。金属は導体なるがために、かかる状態を保持することが出来ない」と書いた。
かように、電気は導体に在るのではなくて、媒介物たる絶縁物内に正負相並んで存在し、これが導体に接する所、いわば境界の所で、正なり負なりの電気として現われる、ということを発見した。
またファラデーの実験として有名なのに、十二フィートの四角な金網の籠かごを作り、これに非常に強い電気をかけても、その内には少しも電気作用が無いというのがある。これもこの頃やったので、これらの研究は一八三七年十二月と同三八年二月とに発表し、「電気の実験研究」の第十一および第十二の両篇をなしている。
この第十二篇の中には、真空放電や火花の事も出ているが、この研究を引きつづき行って、その結果を一八三八年三月に発表した。(「電気の実験研究」の第十三篇)。この時真空管内で、陰極に近い所に暗い部分があることを発見した。これは今日でも「ファラデーの暗界」と呼ばれているものである。
またこの論文の中に「球に正電気を与えて一定の方向に動うごかすと、丁度その方向に電流が流れているのと同じ作用を生ずるだろう」と書いてあるが、これは二十八年後に、アメリカのローランドがそのしかる事を実験上に証明した。実際電子論では、電子が運動するのが電流なり、と見做みなしている。

一五 その後の研究
次には、電気力並びに磁気力の関係(発表は一八三八年六月、「電気の実験研究」第十四篇)。その次は電気鰻の研究で、他の電気と同様に磁気作用もあり、火花も出すし、化学作用もあるということを発表した。それは同年十二月である。(同第十五篇)
かように、研究を出してはおったものの、身体が段々と衰弱して来たので翌一八三九年には、秋まで研究を止めて休養し、その後に電池の起電力の研究にかかった。これが「電気の実験研究」の第十六および十七篇になっているもので、前者は一八四〇年二月、後者は同三月に発表した。
元来、電池の起電力について、相異なれる二つの金属の接触によりて起るという説と、金属と液体との化学作用によりて起るという説とあった。ファラデーは電気作用と化学作用とは両々相伴うもので、かつ比例することを示した。化学作用がなければ電気作用は起らず、されど相異なれる金属を接触させなくとも、電池を作り得るという例までも示した。
一八四〇年の九月十四日よりは実験を止めて、約二個年ばかり休養した。その後ちょっと水蒸気が他の物と摩擦するために電気の起ることを研究したが、(一八四三年一月に発表、「電気の実験研究」の第十八篇)、これを以てファラデーの研究の第二期を終るのである。この次の研究は一八四五年の半なかば過ぎからで、第三期として述べる。
「電気の実験研究」の第一巻には、上の第十三篇までがおさめてあって、一八三九年に出版した。全体で、五百七十四頁ページほどある。
第十四篇から十八篇までと、これにずっと以前に発表した電磁気廻転の論文や、電磁感応の発表のときに、イタリア人のノビリおよびアンチノリが出した論文をファラデーが訳し、それに自身の反論を附したものや、またこのときゲー・ルーサックに送った長い手紙や、その他の雑篇を集めて第二巻とした。三百二頁あって、出版は一八四四年である。それゆえ、おもなものは第一巻に集っていることになる。

第三期の研究
一六 光と電磁気との関係
この前、十年間の研究に際して、ファラデーの心を絶えず指導して来たのは、自然界の種々の力は互に関係ありということであった。その一つとして電磁気と光との間に何にか関係があるという予想は、ファラデーが五年間休養している間に、段々と円熟して来た。
ファラデーは健康が回復すると、一八四五年には再び研究にかかり、八月三十日から電磁気と光との関係につきての実験をやり始めた。
まず電気分解をなしつつある液体の内に偏光を通して見たのであるが、この際、いかなる作用が起るかを予期しておったかは明かでない。ただ手帳には、
「長さ二十四インチ、幅一インチ、深さ一インチ半のガラス函を取り、この内に電解質の液体を入れ、電気分解をなしつつある間に、種々の条件の下に偏光を通じて試験をした。」
と書いてあるのみである。
電極には白金を使い、液体には硫酸ソーダを用いたが、結果は出て来なかった。そこで、液体をいろいろと変えて、十日間実験をつづけた。その間に使ったのは蒸溜水、砂糖の溶液、稀硫酸、硫酸銅等であった。それに電流も、偏光の進む方向に通したり、これに直角に通したり、なおこの電流も、直流を用いたり、交流を用いたりしたが、それにも関わらず、少しも結果が出なかった。
そこで実験の方法を変えて、固体の絶縁物をとり、静電気の作用の下に置いて、この内を通る光に何にか変化が起るかと調べ出した。
最初にやったのは、四角なガラスの向い合った両面に金属の薄片を貼りつけ、発電機の電極につなぐと、ガラスの内部を通る偏光に、何にか変化が起るかと調べたのであるが、やはり変化は見えなかった。
それからガラスの代りに、水晶、氷洲石アイスランド・スパー、重ガラスを用い、またタルペンチン、空気等も用いて見、なお偏光も電気力の方向に送ったり、これに直角に送ったりした。さらに静電気のみならず、電流にして速い交流も使っても見た。しかし、いずれの場合にも作用は少しも無かった。

一七 磁気に働かるる光
そこで、電気力の代りに磁気力を用いたところ、今度は直ぐに成功した。その道順は、
「一八四五年九月十三日、
「今日は磁気力で実験をやった。これを透明な種々の物体に、種々の方向に通し、同時に物体内を通した偏光をニコルで調べた。」
この種々の物体というのは、空気、フリントガラス、水晶、氷洲石で、朝から一つ一つ取りて試み、また磁石の極を変えたり、偏光を送り込むニコルの位置を変えたり、磁石をつくる電池を強くしたりしたが、どうしても作用が無い。そこでファラデーは最後に重ガラスを取った。これは以前、光学器械に用うるガラスの研究をしたときに作ったものである。
「重ガラスの一片、その大さは二インチおよび一・八インチ、厚さ〇・五インチ。鉛の硼硅酸塩。これで実験した。同じ磁極または反対の磁極を(偏光につきていう)両側に置きて、直流並びに交流で実験したが、結果は見えない。されど反対の磁極を一方の側に置いて実験したら、偏光に作用した。これによって、磁気力と光とは互に働き合うことを知り得た。これは非常に有望のことで、自然界の力の研究に大なる価値があるだろう。」
と書いた。
それから四日間休み、その間にもっと強い磁石を他から借りて来た。これで実験したところ、著しく作用が現われた。かつ磁石の作用は偏りの面を一定の角だけ廻転さすので、この角は磁気力の強さにより、また磁気力の生ずる電流の方向によることも発見した。
そこで、前に成功しなかった種々の物体を取って再び試みたところ、どれもこれも好成績を示した。
十月三日には、磁場に置いてある金属の表面から反射する光につきて実験し、鋼鉄の釦ボタンではその面から反射する光の偏りの面が廻転するようであった。しかし、この釦の面はごく平かでないので、結果も確実とは言えなかった。
磁場に置いてある金属の面で光が反射する場合に、偏りの面の廻転することは、後にケルが確かめた。ケルの効果と呼ばれるのがそれである。
十月六日には、ガラス瓶に液体を入れ、これを磁場に置いて、何にか機械的または磁気的作用が起りはせぬかを調べたが、これも駄目であった。
次にファラデーは、磁気が光に作用するからには、反対に光から磁気を生じ得るのではあるまいかと考えた。十月十四日は幸いに太陽が強く輝いておったので、この実験を試みた。コイルに作った針金を電流計につないで置き、コイルの軸の方向に太陽の光を導き入れたので、初めにはコイルの外面を葢おおうて内面のみに日光をあて、次には内面を葢うて外面にのみ日光をあてた。いずれも結果は出て来なかった。
それからコイルの内に磁気を全く帯おびない鋼鉄の棒を入れ、これを日光にさらしつつ廻して見たが、やはり結果は無かった。
ファラデーがかようにいろいろとやっても見つからなかった作用も、後には器械が精密になったので、段々と見つかった。その二、三を述べよう。セレニウムは光にあてるとその電気抵抗が変る。また光にあてて電流を生ずるものもベッケレルが発見したし、かつ菫外線を金属にあてると、金属から電子の飛び出ることもヘルツが発見した。
さてファラデーは、以上の研究をまとめてローヤル・ソサイテーに出したのが、一八四五年十一月六日のことで、これが「電気の実験研究」第十九篇になっている。表題には、「光の磁気を帯ぶること」または「磁気指力線の照明」というような、妙な文句がつけてある。

一八 磁性の研究
ファラデーのこの論文がまだ発表されない前に、ファラデーはまた別の発見をした。すなわち十一月四日に、先頃他から借りて来た強い磁石で、前に結果の出なかった実験を繰り返してやって見て、好成績を得た。それは普通に磁性が無いと思われている種々の物体も、みな磁性があることを発見したのである。これも第一番に、前の重ガラスで発見したので、ファラデーの手帳に書いてあるのにも、
「鉛の硼硅酸塩、すなわち重ガラスの棒を取った。これは前の磁気の光に対する作用を研究するときに用いたもので、長さ二インチ、幅と厚さは各々〇・五インチである。これを磁極の間に吊して、振動の静まるのを待つ。そこで電池をつないで磁気を生じさせたから、ガラスの棒はすぐに動いて[#「すぐに動いて」は底本では「すぐに動いて」]廻り出し、磁気指力線に直角の位置に来た。少々振動させても、ここで静止する。手でこの位置より動しても、すぐに元の所にもどる。数回やっても、その通りであった。」
これから種々の物体について、やって見た。結晶体、粉、液体、酸、油。次には蝋ろう、オリーブ油、木、牛肉(新鮮のものおよび乾いたもの)、血。いずれもみな反磁性を示し、ことにビスマスは反磁性を強く示した。
これらの研究の結果は一八四五年十二月に発表し、例の「電気の実験研究」第二十篇におさめてある。同第二十一篇はこの研究の続篇で、翌年一月に発表した。これは鉄の化合物に対する研究で、固体でも液体でも、塩基の部分に鉄をもつ物はみな磁性を示し、絵具のプルシァン・ブリューや緑色のガラス瓶に至るまでも磁性を示すことが出ている。

一九 光の電磁気説
一八四六年に王立協会でファラデーのやった金曜の夜の講演に、「光、熱等、輻射のエネルギーとして空間を伝わる振動は、エーテルの振動ではなくて、物質間にある指力線の振動である」という句があった。この考は友人フィリップスに送った手紙にくわしく書いてあり、またこの手紙を、「光の振動についての考察」という題で、同年五月のフィロソフィカル・マガジンにも出した。
これが、ファラデーの書いたものの中で、最も想像的なものとして著名なので、少しも実験の事は書いてない。恐らくこの時こそ、理論家としてファラデーが最高潮に達した時であろう。
上の物質間にある指力線の振動というのが、今日の言葉でいうと、電子の間にある電磁気指力線の振動の事で、これが光、熱等の輻射に外ならずというのである。この考こそ後になって、マックスウェルが理論的に完成し、ヘルツが実験上に確かめた光の電磁気説である。マックスウェルの書いた物の中にも、
「ファラデーによりて提出された光の電磁気説は、余がこの論文に精くわしく述ぶるものと、実質において同じである。ただ一八四六年の頃には、電磁波の伝わる速度を計算する材料の存在しなかった事が、今日との相違である」と。

二〇 その他の研究
この一八四六年の後半より翌年にかけて、ファラデーは研究を休んだ。その後一八四八年の十二月に至りて発表したのが、「電気の実験研究」の第二十二篇になっている、磁場におけるビスマスの性質を研究したものである。ビスマスの結晶を一様なる強さの磁場に吊すと、必ず一定の方向を取るので、(一様な強さの磁場に吊すのは、もともとビスマスに強い反磁性があるゆえ、磁場の強い所から弱い所へと動く性質がある。これの顕あらわれ無い様にする)ためである。これは、結晶体の構造に方向性があることを示すので、ビスマスのみならず、砒素、アンチモニーの結晶にも、同様の性質がある。なお研究の続きを一八五〇年三月に発表した。(「電気の実験研究」第二十三篇)
ファラデーは以前から、重力と電気との間に関係あるべきを確信しておったが、その実験をしても、少しも結果を得なかった。その得ないままを、同年十一月に発表した(同上、第二十四篇)。また同時に、酸素、水素等の磁性の研究を発表し、酸素に強い磁性あることを記した(同上、第二十五篇)。なお磁気性に対する伝導の力すなわち誘磁率の研究と空気の磁性の研究も発表した(同上、第二十六篇および[#「第二十六篇および」は底本では「第二十六篇および」]第二十七篇)[#「第二十七篇)」は底本では「第二十七篇)」]。ただし、空気の磁性の研究は学者間に余り賛成を得なかった。

二一 再び感応電流に就いて
翌一八五一年には七月より十二月の間、再び電磁気感応の研究をして、定量的の定律を発見した。すなわち、一様の強さの磁場で針金を一様に動すとき、感応によりて生ずる電流の強さは、その運動の速さに比例し、従いて針金の切りたる磁気指力線の数に比例すというのである。
次に、磁場の強さや大いさを測定するに、この定律を用いて、感応にて生ずる電流の強さの測定による方法を考えた。これらの研究は同年十二月並びに翌年[#「に翌年」はママ]一月に発表し、「電気の実験研究」の第二十八、二十九の両篇になっている。
この後一八五二年に王立協会にて講演せる「磁気指力線」に関するものおよびフィロソフィカル・トランサクションに出せる「磁気指力線の性質」に関するものは、いずれも有名な論文である。
「電気の実験研究」の第三巻は上の第十九篇より二十九篇までに、今述べた両論文と、前に述べたフィリップスに与えた手紙、それからこの後二、三年間に書いた断篇を収めたもので、一八五五年の出版に係り、総頁五百八十八で、第一巻より通じての節の数は約三千四百である。

二二 晩年の研究
ファラデーの研究はこの後にも続き、一八五六年には水の結晶を研究し、復氷の現象を発見した。すなわち氷の二片を圧すと固まりて一片となるというので、これは周囲の空気の温度が氷点より少し高くても出来ることである。
一八五九年に出版した「化学および物理学の実験研究」は、ファラデーの一番初めに発表した生石灰の分析の研究より一八五七年頃までの研究にて、化学並びに物理学に関した論文をまとめたもので、この外には狐狗狸こくりに関する論文もおさめてあり、巻末には「心の教育」という一八四四年五月六日、王立協会にてヴィクトリア女皇の良人アルバート親王、並びに一般の会員に対して講演したものも入れてある。総頁は四百九十六。
実験室手帳によれば、ファラデーの行った最後の実験は一八六二年三月十二日で、光に対する磁場の影響に関するものである。分光器にてスペクトルをつくり、これが磁場にていかなる変化を受くるかを調べたるも、結果は見当らなかった。この後三十五年を経て、一八九七年オランダ人のゼーマンがこの変化を研究し、今日ゼーマン効果といわれている大発見となった。

二三 研究の総覧
これよりファラデーの研究の全般を窺うかがおう。それにはチンダルの書いたものがあるから、そのままを紹介する。ただファラデーの死後間もなく(今から言えば五十年前に)書かれたものだから、多少不完全な点もあるようである。
「アルプス山の絶頂に登りて、諸山岳の重畳するを見渡せば、山はおのずから幾多の群をなし、各々の群にはそれぞれ優れた山峯あって、やや低き諸峰に囲まるるを見る。非常なる高さに聳ゆるの力あるものは、必ずや他の崇高なるものを伴う。ファラデーの発見もまたそのごとく、優秀なる発見は孤立せずして、数多の発見の群集せる中の最高点を形成せるを見る。
「すなわちファラデーの電磁気感応の大発見を囲んで群集せる発見には、電流の自己感応、反磁性体の方向性、磁気指力線とその性質並びに配布、感応電流による磁場の測定、磁場にて誘導さるる現象。これらは題目において千差万別なるも、いずれも電磁気感応の範囲に属するものである。ファラデーの発見の第二の群は、電流の化学作用に関するもので、その最高点を占むるは、電気分解の定律なるべく、これを囲んで群集せるものは、電気化学的伝導、静電気並びに電池による電気分解、金属の接触による起電力説と電池の原因に関する説の欠点、および電池の化学説である。第三群は光の磁気に対する影響で、こは正にアルプス山脈のワイスホルン峰に比すべきものか。すなわち高く美しくしかも孤峰として聳ゆるもの。第四群に属するのは反磁性の発見で、総ての物質の磁性を有することを中心として、焔ほのお並びにガス体の磁性、磁性と結晶体との関係、空中磁気(ただし一日並びに一年間の空中磁気の変化に関する説は完全とは言い難かるべきも)である。[#「である。」は底本では「である」]
「以上に列記したるは、ファラデーの発見中の最も著名なるもののみである。たといこれらの発見なしとするも、ファラデーの名声は後世に伝うるに足るべく、すなわちガス体の液化、摩擦電気、電気鰻の起す電気、水力による発電機、電磁気廻転、復氷、種々の化学上の発見、例えばベンジンの発見等がある。
「かつまたそれらの発見以外にも、些細の研究は数多く、なお講演者として非常に巧妙であったことも特筆するに足るだろう。
「これを綜合して考うれば、ファラデーは世界の生んだ最大の実験科学者なるべく、なお歳月の進むに従って、ファラデーの名声は減ずることなく、ますます高くなるばかりであろう。」と。
ファラデーの名声がますます高くなるだろうと書いたチンダルの先見は的中した。しかし、チンダルはファラデーの最大の発見を一つ見落しておった。それは実験上での発見ではなくて、ファラデーが学説として提出したもので、時代より非常に進歩しておったものである。もしチンダルにその学説の価値が充分に理解できたならば、チンダル自身がさらに大科学者として大名を残したに違いない。それは何か。
前にフィリップスに与えた手紙のところで述べた電気振動が光であるという説である。マックスウェルの数理と、ヘルツの実験とによりて完成され、一方では理論物理学上の最も基本的な電磁気学に発展し、他方では無線電信、無線電話等、工業界の大発明へと導いた光の電磁気説がそれである。

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食品の混ぜ物処理および調理の毒物

 

「食品の混ぜ物処理および調理の毒物」(1820)
パン、ビール、ワイン、蒸留酒、茶、コーヒー、クリーム、クリーム菓子、食酢、辛子、胡椒、チーズ、オリーヴ・オイル、ピックルズ、その他の家庭で使われる品物の不正な混ぜ物処理およびその検出方法

著者 フレデリック・アークム

緒言.
この本は表題が示すように、テーブル上で必須または贅沢な品物に分類される食べ物などへの不正な混ぜ物処理(adulteration)を簡単に見つけ出せるようにし、不注意な人たちでも健康に有害ものが混じった商品に気づくようにしている。
すべての人たちは、パン、ビール、ワイン、などの家庭で使われている物質にしばしば混ぜ物処理がなされていることを知っている。そして茶、コーヒー、パン、ビール、コショウ、その他の食品の混ぜ物処理をしたり偽造したことで多くの人たちが有罪になったことを今でも記憶している。
種々の生活用品を偽造し混ぜ物処理をする全く天才的な方法がこの国に入ってきて、その結果として市場の至る所に見せかけのものが存在し、あまりにも巧に作られているので経験の最もある裁判官さえも識別できないほどである。
しかし欲得ずくの商人たちがする可能性のあるすべての不正な取引と誤魔化しのうちで、最も罪が重くすべての正直な人たちに残念であり不愉快な気持ちを起こさせるのは、健康に悪い添加物を人間の食物に混ぜることである。有毒な添加物によって汚染された人間の食べ物が大衆に売られた多くの事実が記録され、このような食べ物を使ったために起きた悲劇的な事件が医学誌に記録されている。
熱心で飽くことのない金儲けへの渇望は禁止および懲罰に打ち勝ち、不道徳な商売人にとって同朋が犠牲になる可能性は二次的なものでしかない。
食物の混ぜ物処理をした個人の名前を明らかにするのは役所にとって不快なことかも知れないし、辛い義務かも知れない。しかし、私の言っていることの正しいことを示すにはそれを証拠だてる引用をしなければならず、私は議会の文書その他の公的記録を引用することにした。
この本をもっと有用にするために、ときには個人の家において種々の食品や食卓のための珍味を作るさいに気がつかないで事故または無知によって起きた物質的な誤りも指摘することにした。
不正手段を検出するのが私の目的であるが、そのために必要な実験を説明するのにさいして、化学に慣れない人でもできるような手技を示すようにした。そして一般的な使用のために不適当と思われる難解な科学用語を取り除いて、すべての必要な規則や指示を最も平易な言葉で表現するように意図してきた。
もしもここに与えた見解によって一人の読者がこの本の刊行された目的を追求したり、もしも預言者の息子たちとともに我々が警告して叫ぶ巨大な次のような悪を大衆の心中に刻み込むとしたら、この本の企画は完全に答えられたことになるでろう。
「鍋には死の毒が入っている」(列王紀下4:40)
このような悪い行為を廃めさせるるためには社会のすべての階級が熱意をもって協力することが必要である。
フレデリック・アークム
ロンドン. 1820.

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スリーピー・ホローの伝説

+目次
そこは心地よいまどろみの国。
夢は半ばとじた眼の前にゆれ、
きらめく楼閣は流れる雲間にうかび、
雲はたえず夏空に照りはえていた。
――倦怠けんたいの城

ハドソン河の河幅がひろがり、むかしオランダ人の航海者がタッパン・ジーと名づけていたところでは、彼らは用心していつでも帆をちぢめ、航海者の守り、聖ニコラスに加護をねがいながら、横断したものだ。そこの東側の岸にくいこんでいる広い入江の奥に、小さな市場か田舎の港といったような町があり、ある人たちはグリーンズバラと呼んでいるが、本来はタリー・タウン(ぶらつき町)という名が正しく、また普通にはその名で知られている。聞くところによれば、この名は、そのむかしこの近隣の女房たちがつけたもので、市場のひらかれる日に亭主連が村の居酒屋のあたりをぶらついてはなれない頑固な癖があったからだという。それはともかくとして、わたしはこの事実の真偽のほどはうけあわない。ただ一応そのことを述べて、正確と厳正を期そうというわけである。この村からさほど遠くない、おそらく二マイルほどはなれた高い丘に、小さな渓谷、というよりはむしろ窪地くぼちというべきところがあるが、そこは世の中でいちばん静かな場所である。小川が滑るように流れそのせせらぎは人を眠りにいざない、ときたまうずらが鳴いたり、啄木鳥きつつきの木をたたく音が聞えるが、あたりにみなぎる静寂を破る響はそれくらいのものだ。
思いおこしてみると、わたしがまだ少年のころはじめて栗鼠射りすうちで手柄をたてたのは、この渓谷の片側に茂っている高い胡桃くるみの木の林だった。わたしがその林のなかにはいりこんだのはちょうどひるどきで、自然はことのほか静かで、わたしは自分の銃のとどろく音にもおどろいたものだ。銃声はあたりの日曜日のような静けさを破り、こだまとなって尾をひき、怒ったように鳴りひびくのだった。世の中の騒がしさから逃れ、わずらわしいことばかり多かった人生の余暇を静かに夢みながら暮すことができる隠居所をもとめるならば、この小さな渓谷にまさるところは知らない。
このあたりには、ものういような静けさがただよっているし、またその住民はむかしのオランダ移住民の子孫だが一風変った気質をもっているので、このさびしい谷は長いあいだスリーピー・ホロー(まどろみの窪)という名で知られていた。そして、そこの百姓息子は、この近在のどこへ行ってもスリーピー・ホローの若衆と呼ばれていた。眠気をさそう夢のような力がこのあたりをおおっており、大気の中にさえ立ちこめているようだった。移住のはじまったころ、ドイツのある偉い祈祷きとう医師がこの場所に魔法をかけたのだというものもあるが、またあるものは、ヘンドリック・ハドソン船長がこの土地を発見するよりも前に、インディアンの老酋長ろうしゅうちょうで、種族の予言者か妖術師ようじゅつしであった男が、ここで祈祷をおこなったのだとも言っている。たしかに、この場所にはいまだになにか魔力がいていて、それが善良なひとびとの心にのろいをかけ、そのおかげで彼らはいつでも幻想にふけりながらうろついているのである。彼らは、ありとあらゆるふしぎな信心に夢中になり、夢幻の境に遊んだり、幻想におちいったりするし、しばしば奇怪なものを見たり、虚空こくうに音楽や人声を聞くこともある。近隣一帯には伝説は豊富だし、幽霊のでる場所も多いし、うす暗い時刻につきものの迷信もあまたある。流星がとぶのも、隕石いんせきがひらめくのも、この谷間では国じゅうのどこよりも頻繁だし、悪夢の魔女は九人の供をひきつれて、ここで跳びはねるのが好きらしい。
しかし、この妖術をかけられた地方につきまとう主領の精霊で、空中の魔力の総大将とおぼしいのは、首の無い騎士の亡霊である。ある人たちのいうのには、これはヘッセからアメリカに渡った騎兵の幽霊であり、独立戦争のとき、どこかの小ぜりあいで、大砲の弾丸に頭をうちとばされたもので、ときたま村の人たちが見かけるときには、夜のやみのなかを疾走し、あたかも風の翼に乗っているようだということだ。その亡霊のあらわれるところは、この谷間だけに限らず、ときには近所の街道にも及び、特に、そこから遠くないある教会の付近にはよくあらわれるのだ。じっさい、この近傍のもっとも信頼すべき歴史家たちのなかには、この亡霊についてのうわさを集めたものがあり、彼らが比較検討したうえで言明するところでは、この騎士の死体はこの教会の墓地に埋葬されているが、その亡霊は夜な夜なもとの戦場に馬を駆り、頭をさがすのである。亡霊が夜半の疾風のように速くこの窪地を通り去るのは、刻限におくれたために、大いそぎで夜明け前に墓場へ帰ろうとしているのだということだ。
これがこの伝説的な迷信の大意であるが、この迷信が材料になって、この幽霊が出る地方にはいくたのふしぎな物語ができあがった。この亡霊はどの家の炉ばたでも、「スリーピー・ホローの首なし騎士」という名で知られている。
ふしぎなことに、さきほど述べた夢想におちいる傾向は、この谷間に生れつき住んでいる人だけでなく、しばらくそこに住む人も知らず知らずのうちにみな取りつかれるのである。ひとびとが、この眠たげな地域に入る前にいかにはっきり目をさましていたとしても、間もなくかならず空中の魔力を吸いこんで、空想的になり、夢を見たり、幻影を見たりするようになるのだ。
わたしはこの平和な場所にあらゆる讃美さんびの言葉をおしまない。それは、大ニューヨーク州の奥深く、あちらこちらにあるオランダ人の住む辺鄙へんぴな渓谷のなかにあり、ここでは人口も風俗習慣もかわらないのだ。休むことを知らないアメリカのほかのところでは、移住民や種々な改善が奔流のようにぞくぞく流れこみ、絶えず変化しているが、その大きな急流もこの渓谷にはまったく気づかれずに流れてゆくのだ。そこは静かな水の片隅のようなもので、急流と境を接しているのに、わらくずや泡が静かにたゆたっていたり、あるいは、波止場にでもついたかのようにゆるやかに渦巻いていたりして、かたわらを流れてゆく急流に乱されないのにも似ている。わたしがスリーピー・ホローの眠たげな森かげを歩いてから、もういくたの年月がたっているが、今もやはり、そのころと同じ樹木が茂っており、同じひとびとがその奥まったところにのんびり暮しているのではないかと思う。
この自然界の片隅に、アメリカの歴史がはじまったころ、というのは三十年ほど前のことだが、イカバッド・クレーンという名の見あげた人物が、付近の子供たちに勉強を教えるために、スリーピー・ホローに仮り住まいをしていた。いや、その本人の言葉でいえば、「ぶらついて」いたのだ。彼はコネティカット州の生れだったが、その州はアメリカじゅうに森林の開拓者はもちろん学問の開拓者も供給し、毎年大ぜいの木樵きこりを辺境におくり、教師を田舎に出している。クレーン(つる)という苗字みょうじは彼の容姿にぴったりしていた。背は高いが、ひどく細く、肩幅はせまく、腕も脚も長く、両手は袖口そでぐちから一マイルもはみだし、足はシャベルにでもしたほうがいいような形だった。ひどくいいかげんにまとめあげたようなからだつきなのだ。頭は小さく、上が平らで、大きな耳と、大きな緑色のガラスのような眼と、しぎくちばしのように長い鼻とがくっついているさまは、まるで風見のとりが、彼の細い首のうえにとまって、風の吹く方向を告げているようだった。風の強い日に彼が丘の背を大股おおまたで歩き、洋服をばくばくと風になびかせてゆくのを見ると、貧乏神が地上におりてきたのか、あるいは、どこかの案山子かかし玉蜀黍とうもろこしの畑から逃げだしてきたのかとまちがえるかもしれない。
彼の学校は低い建物で、大きな教室が一つきりの粗末な丸太づくりだった。窓はガラス張りのもあったが、帳面の紙をはぎあわせてあるのもあった。不在のときには、きわめて巧妙に、細枝でつくったひもでしっかりとドアの取っ手をしばりつけ、鎧戸よろいどには心張棒がかってあった。したがって、泥棒はまったくやすやすと侵入できるとしても、出るときにはいささか困惑するにちがいない。おそらくこの思いつきは大工のヨースト・ヴァン・ホーテンが鰻落うなぎおとしのからくりから借りてきたものであろう。校舎は、少々ものさびしいとはいえ気持ちのよいところに建っていた。木のおいしげった丘のふもとで、近くを小川が流れ、白樺しらかばの巨木がその片端に立っていた。眠けを誘う夏の日には、生徒たちの課業を勉強する声が、校舎から低くぶつぶつ聞えてきたが、蜜蜂みつばちのぶんぶんいう音のようだった。ときどきそれが途切れて、先生の、まるでしかっているか命令でもしているような調子の重々しい声が聞えた。また、ときには恐ろしいむちの音がしたが、おそらく先生が、だれか歩みのおそいものをうながして花咲く学問の道を進ませようとしているのだった。じつのところ、彼は良心的な男で、いつも心に例の金言を銘じていた。「鞭を惜しむと、子供は甘くなる」イカバッド・クレーンの生徒たちはたしかに甘やかされてはいなかった。
しかし、彼が惨酷ざんこくな校長で、生徒の苦痛をよろこぶようなものであると想像されては困る。それどころか、彼の罰し方はただ厳格一方というのではなく、ちゃんと差別をつけていたのである。彼は、弱いものの背から負担をとりのぞいて、それを強いもののうえにおいた。弱々しい少年が、ちょっと鞭をふりあげただけでもびくびくすれば、大目に見すごしてやった。だが、処罰が二人前になって十分にふりかかるのは、生意気な、頑丈な、片意地な、しりの大きいオランダ人の腕白小僧だった。そういう子供は、鞭のもとで、すね、ふくれ、頑固になり、むっつり不機嫌になった。こういうことをすべて彼は「親のために自分のつとめをはたすことだ」と言っていた。苦しむほうの腕白小僧にしてみればまったくありがた迷惑なことだが、彼は折檻せっかんをしたあとでは、かならず「おまえは生きているかぎりはこのことを思い出して、ありがたく思うだろう」と言ったものだ。
学校が終ると、彼は年長の少年のために友だちともなり、遊び相手ともなった。そして、休みの日の午後には年下の子供を家に送って行ってやったが、偶然その子に綺麗きれいな姉がいたり、あるいはその母親が善良な女房で、うまい御馳走ごちそうをつくるので評判だったりしたものだ。じっさい、彼は当然生徒たちと仲よくしなければならなかった。学校からあがる収入はわずかだったし、とても毎日のかてをもとめるにも足りないくらいだった。彼はなかなかの健啖家けんたんかで、せほそってはいたものの、大蛇のように胃袋をふくらますことができたのだ。ところが、彼は生活費を補うために、このあたりの田舎の風習にしたがって、あちこちの百姓の家に下宿し、食事の厄介になっており、そしてその子供たちを教えていたのだった。彼はこういう農家に、一軒につづけて一週間ずつ世話になっては、近所をめぐり歩いたのだが、そういうときに彼は家財をまとめて、木綿のハンカチに包んで行ったものだ。
こういうことが彼の後援者たる田舎ものの財布に負担をかけるとなると、彼らはとかく教育費はたいへんな出費だと考えたり、先生は単なるごくつぶしだと思ったりしがちだから、そうならないように、彼はいろいろと用事をしたり、また好かれるようにしたりした。おりをみて、彼は百姓を手つだって、かるい畑仕事をしてやった。乾草ほしぐさつくりに手をかしたり、垣根をなおしたり、馬に水をのませに連れていったり、牝牛めうしを放牧場から駆りたてたり、冬の煖炉だんろに燃すまきをきったりした。そのうえ、彼は、自分の小さな帝国である教室に君臨するときの圧迫的な威厳や絶対支配権をいっさい投げうって、おどろくほどやさしくなり、気に入られるようにした。彼は子供をかわいがってやっては、母親たちの好意をかちえたが、特にいちばん幼い子供をかわいがった。そして、むかしあの猛々たけだけしいライオンが、おおらかな気持ちで、羊をだいてやったように、彼はよく子供をひざにのせ、何時間もぶっつづけに足で揺りかごをゆすったものだった。
ほかの仕事に加えて、彼は近隣の歌の先生でもあり、若い人たちに讃美歌の歌い方を教えて、ぴかぴかの銀貨をたくさん稼いでいた。日曜日に、選りぬきの歌い手たちを引きつれて、教会の聖歌隊の場所の正面に席をしめることは、彼の虚栄心をなみなみならず満足させたものである。そこに立つと、彼は牧師から完全に勝利をうばいとったような気がしたのだ。たしかに彼の声はほかの会衆一同の声よりはるかに高らかに鳴りひびいた。そして、今でもその教会のなかでは妙にふるえる音が聞え、静かな日曜日の朝には水車用水池の正反対のほうに半マイルもはなれたところでも聞えることがあるのだが、その声はまさしくイカバッド・クレーンの鼻から伝わったものだといわれている。こうしてさまざまなやりくりをして、いわゆる「なんでもかんでもする」といううまい方法で、この立派な教育者はまずまず申し分なく暮し、頭を働かす仕事には門外漢な連中には、えらく安楽な生活をしていると思われたのだ。
先生というものは概して田舎の女性たちには相当尊敬されるもので、のんきな紳士風の人間のように思われ、荒っぽい田舎の男たちにくらべれば、はるかにすぐれた趣味や才芸もあり、じっさい、学問ではただ牧師に及ばないだけだと考えられるものだ。だから、先生があらわれると、とかく農家のおやつのテーブルには少なからず騒ぎがおこり、菓子や砂糖漬けのご馳走がむやみと増えることもあろうし、ことによれば、銀の茶瓶を見せびらかすこともある。したがって、この学者先生も田舎の娘たちには大もてだった。日曜日の教会の境内で礼拝のあいまに、彼はどんなに彼女たちのなかで目立ったことだろうか。周囲の木々にからみついている野葡萄のぶどうの実をとってやったり、彼女たちを面白がらせるために墓石の銘を全部朗唱したり、あるいはまた、彼女らをみんな連れて近所の水車用水池の堤を散歩したりしたのだ。しかも、そのあいだ、はにかみ屋の田舎娘たちはおずおずしてうしろのほうにかくれ、彼のすぐれた上品さや応対ぶりをうらやましがっていたのである。
なかば巡回旅行のような生活をしていたので、彼はまた歩く新聞のようなものでもあり、あちこちの噂消息をあつめて家から家へと持ちあるいた。だから、彼が来ることはいつでも歓迎された。そのうえ、彼は婦人たちにたいへんな物識ものしりとして尊敬されていた。なにしろ彼は数冊の書物を読んでいたし、コットン・マザーの「ニューイングランド魔術史」には精通していたのだ。ついでながら、彼はこの著書を深く固く信じていたのである。
じじつ、彼には小利口で抜け目のないところと、単純にものを信じやすいところとが妙にまじりあっていた。不可思議なことを好む食欲も、またそれを消化する力もなみなみでなかった。しかも、それが両方ともに彼がこのまじないのかかった地方に住んでからいよいよ旺盛おうせいになった。どんな大きな話でも、恐ろしい話でも、彼はがぶりとのみこんでしまうのだ。彼のたのしみは、午後、学校が終ってから、学校のそばですすりないている例の小川のほとりの、ふさふさしたクローバの上に、しばしば寝ころがって、マザーの恐ろしい話を熟読玩味がんみすることだった。そして、夕闇が濃くなって、書物のページが彼の眼の前でもやのようにかすんでしまうまで、読んでいるのだ。それから帰りみちには沼や川や、ものすさまじい森のそばを通って、そのとき厄介になっている農家へ帰ってゆくのだが、この妖怪が出そうな時刻には、自然界のもの音はみな、彼の興奮した想像力を刺戟しげきした。丘の斜面から聞えてくるウィッパーウィル(原註)の鳴く声。雨蛙あまがえるの不吉な声はあらしの前ぶれだ。ふくろうのさびしい声。突然しげみの中でがさがさいうのは、鳥がおどろいて巣から飛びたつ音だ。蛍さえもひどく暗いところで鮮かにぴかりぴかり光り、ときどき並みはずれてよく光るのがみちを横ぎって流れ、彼をおどろかした。なにかのはずみで、大きな馬鹿ばか甲虫かぶとむしがまごついて飛んできて彼にぶつかろうものなら、このあわれな男は魔女のまじないにうたれたのかと思って、あやうく死ぬほどになった。そういう場合に、気をしずめたり、あるいは悪霊あくりょうを追いはらうためにただ一つ力の源になるのは、讃美歌をうたうことだった。スリーピー・ホローの善良なひとびとは、夕方家の戸口に腰かけながら、恐怖に満たされて、彼の鼻声の歌をきいたことがしばしばあった。その歌は、「長々と美しくつながり」遠くの丘やほの暗い街道から流れてくるのだった。
もうひとつ、こわいながらも彼のたのしみだったことは、冬の夜ながを年老いたオランダ人の女房連とすごし、彼女たちが炉ばたで糸をつむぎ、焼き林檎りんごが炉にならんでぷつぷつ音を立てているとき、そのふしぎな物語に聞きいることだった。それは、幽霊の話、鬼の話、化け物の出る野原、小川、橋、屋敷、それから特に「首なし騎士」、彼女たちがときとして呼ぶところによれば、「スリーピー・ホローの早駈はやがけヘッセ人」の話だった。彼のほうもまた、むかしコネティカット州によくあった魔術や、虚空にあらわれた恐ろしいしるしや、不吉な影や音の伝説をきかせて彼女たちを喜ばせたり、彗星すいせいや流星についての推論や、世界はまちがいなくぐるぐる廻っているので、彼女たちも一日の半分はひっくりかえしになっているという驚嘆すべき事実を語っておどろかしたものである。
ぱちぱちと火は燃えて部屋じゅうが真赤に照りかがやき、もちろん幽霊などは顔も見せようとしないところで、心地よく炉ばたにうずくまって、こんなことを話しているのはたのしかったが、それから家へ歩いてゆくときの恐ろしさはそれを償ってあまりあるほどだった。おそろしいもの影が、雪の夜のぼんやりすさまじく光るなかで、彼の通る路に待ちうけていた。荒れはてた野原の彼方かなたの遠くの窓から流れてくる光が、ちらほらとほのめいているのを、彼はどんなにさびしい思いをして見やったことだろう。雪におおわれたやぶが、経帷子きょうかたびらを着た幽霊のように彼の路を取りまいているのを見て、なんどもなんども彼はぞっとしたものだ。自分の足音が凍った地面に鳴る音にびくびくして、いくたびもからだをちぢこまらせた。そして、うしろを見ようものなら、なにか妖怪変化がすぐあとをのしのし歩いてくるのが目に入るのではないかと恐ろしい思いをした。疾風が木々のあいだを吹き過ぎると、もしや「早駈けヘッセ人」がまたもや夜ごとの徘徊はいかいにさまよいでてきたのではないかと、すっかり狼狽ろうばいしてしまうのだった。
しかし、こういうことも夜だけの恐怖にすぎず、心の迷いで暗闇に横行するものにすぎなかった。そして、今までに彼は幽霊をたくさん見たことがあるし、ひとりで散歩したときには、いろいろな形をした悪魔に一度ならず取りかこまれたこともあった。だが、昼の光がさせば、こういう悪魔どもはすべて雲散霧消し、悪魔がいようと、また、それがどんな仕業をしようと、彼は愉快な人生をおくったにちがいない。もっとも、それは、幽霊や、悪魔や、あるいは魔法使の女を全部一まとめにしたよりも、もっと人間を悩ますあるものが、彼のゆく路を横ぎったりしなかったならばのことである。その、あるものとは、女であった。
毎週一回晩にあつまって彼の讃美歌の指導をうけていた音楽の弟子たちのなかに、カトリーナ・ヴァン・タッセルという、オランダ人の金持ち農夫の一人娘がいた。彼女は花はずかしい十八歳の乙女だった。しゃこのように丸々とふとって、熟して柔らかで赤い頬は、まるで彼女の父のつくった桃にも似ていた。そして、彼女の評判はひろく知られていたが、それは単に美貌びぼうのためだけでなく、巨万の遺産をうけつぐことになっていたためでもある。しかも、彼女は着ているものを見ればわかるように、いささかあだっぽいところもあった。彼女の服は昔風なところに最新流行をまじえたもので、それがまことに彼女の魅力をしたたるばかりにしていた。彼女は、祖母の祖母がオランダのザールダムから持ってきた純金の装身具をつけ、昔のいきな胸かざりをつけ、さらに男性の胸をときめかすような短いスカートをはき、この界隈かいわいきっての綺麗な足とくるぶしを見せつけたものである。
イカバッド・クレーンは女性に対してもろく、甘かったから、それほど男の心を誘うような女はたちまち彼の気に入り、特に彼が彼女の両親のやしきを訪ねてからそれが強くなったことにふしぎはあるまい。ボールタス・ヴァン・タッセル老人は、裕福な、何ひとつ不足のない、心の大まかな農夫の見ごとな標本だった。じっさい、彼は自分の農場の境界よりそとのことには目をくれようともしなければ、考えて見ようともしなかった。が、その農場では、一切がきちんとして、心地よく整っていた。彼は自分が金持ちであることに満足してはいたが、それを自慢したりしなかった。心ゆくばかりのゆたかさを誇ったが、自分の生活ぶりを得意になって見せたわけではない。彼の本拠はハドソン河の岸のオランダの百姓がたいへん好んで住むような緑濃い、奥まった、地味の肥沃ひよくなところにあった。エルムの巨木がその邸の上にひろびろと枝をひろげ、その根かたには泉があって、甘い柔かい水がごぼごぼときだして、小さな樽形たるがたの井戸からあふれ、きらきら光りながら草地のなかを通って、近くの小川に注いでいた。その小川は、はんの木や小さな柳のあいだをさらさらと流れている。母屋おもやのすぐそばに大きな納屋なやがあり、教会にしてもよいくらいだった。どの窓からも、どの割れ目からも、農場でとれた宝物がこぼれ出そうだった。そのなかでは朝から晩までから竿ざおの音がいそがしく鳴りひびき、つばめや岩つばめが軒端のきばをかすめて飛び、さえずり、屋根の上にははとがいく列もならんで、片目をあげて天気を見ているような形をしたり、頭を翼のなかにかくしたり、胸にうずめたりあるいは、恋人のそばで、からだをふくらましたり、くうくう鳴いたり、お辞儀をしたりして、日光を浴びてたのしんでいた。つやつやした、まるまる肥った食用豚は、おりのなかでのんびりと、ほしいままにえさを食べながら、ぶうぶういっていた。ときおり、まだ乳ばなれしない小豚の群が飛びだしてきたが、大気のにおいをぐためのように見えた。雪のように白い鵞鳥がちょうは堂々たる艦隊をなして、近くの池で遊弋ゆうよくし、家鴨あひるの船隊をまもっていた。七面鳥の連隊は庭で鳴きあるき、ほろほろ鳥は、その鳴き声にぷりぷりして、不機嫌な女房連のように気むずかしげに不満の叫びをあげていた。納屋の入口の前では、勇ましい雄鶏おんどりが気取って歩き、あっぱれな亭主か、勇士か、紳士のようだった。ぴかぴかした翼をはたき、心からうれしく得意になって、ときをつくり、ときどき地面を足で引っかき、それから、いつでも空腹をかかえている女房や子供たちを呼んで、自分が見つけた見ごとな餌をご馳走してやるのだった。
先生はよだれをたらして、この壮観を見、これなら贅沢ぜいたくな冬がすごせるぞ、と思った。彼は欲ばった空想をめぐらして、丸焼きにもってこいの豚が、どれもこれも腹にはプディングをつめ、口には林檎をいれて、駈けまわっているのを頭に描いた。鳩は、うまそうなパイに気もちよく寝かしつけられて、パイの皮のなかにくるまれている。鵞鳥は自分のからだでつくった肉汁のなかを泳いでいる。家鴨は皿の上に二羽ずつきちんと並び、きれいな新婚夫婦のようであり、ねぎのソースがたっぷりとかけてある。食用豚を見ると、彼は未来のベーコンの滑らかな肌が彫りだされているように思ったし、汁の多い、風味のよいハムを想像した。七面鳥も彼の眼には、うまそうにくしざしになって、砂嚢さのうは羽の下にかくして、おそらくは、かおりのよいソーセージを首飾りにしているように思われた。それから、すばらしい雄鶏さえも、仰向けになって、添え料理の皿に横たわり、蹴爪けづめを高く上げて、あたかも生きているあいだは武侠ぶきょうの精神のおかげでえておうとしなかった助命を切望しているように見えた。
恍惚こうこつとなったイカバッドは、こんなことを空想しながら、緑色の大きな眼をぐるぐるさせて、ゆたかな牧草地をながめ、豊穣ほうじょうな小麦や、ライ麦や、蕎麦そばや、玉蜀黍とうもろこしの畑を見わたし、赤い実が枝もたわわになっている果樹園を見、それにかこまれたヴァン・タッセルの暖かい家を見ていた。すると、彼の心は、やがてこの領地をうけつぐことになっている乙女に恋いあこがれた。彼の想像はさらにひろがって、こういうものを即座に現金にかえて、その金を広大な未開地に投資して、荒野のなかに板ぶき屋根の宮殿をつくることもできよう、などと考えた。いや、彼の性急な空想ではすでにこんな希望はかなえられて、この花の匂うようなカトリーナが、子供たちも大ぜいいっしょに、馬車の上に乗り、中にはごたごたの家財道具をいっぱい積みこんで、下にはつぼやら薬罐やかんやらをぶらさげているのだった。そして、彼自身は、ぱっぱっと走る牝馬ひんばにまたがり、子馬を一頭したがえて、ケンタッキーか、テネシーか、あるいはまたどこへなりとくりだした気になってしまった。
彼が家に入ったとき、彼の心は完全に圧倒されてしまった。ひろびろとした家で、棟は高いが、屋根の勾配こうばいはゆるやかで、その建築様式は初期のオランダの移住民から伝えられているものだった。軒が低く突きだして、正面にヴェランダができ、天気が悪いときには閉められるようになっていた。ここには、から竿や、馬具や、いろいろな農具やら、また、近くの河で魚をとるための網がさがっていた。夏使うベンチが両側にならんでいて、片方の端に大きなつむぎ車があり、もう一方にバタつくり機械がおいてあるのを見れば、この大切な玄関がいろいろなことに使われることがわかった。このヴェランダから、びっくりしたイカバッドは広間に入った。そこが邸の中心で、ふだんは居間になっているところだった。ここでは、ぴかぴか光る白鑞しろめの器が長い食器戸棚にいく列も並んでおり、目もまばゆいほどだった。一隅に羊毛の大袋があって、紡ぐばかりになっていたし、また別の隅には、機織はたおり機械から下ろしたばかりの麻と毛とを交ぜたたくさんの織物や、玉蜀黍の穂が置いてあった。し林檎と挑とがひもでつないで、にぎやかに花づなのように壁につるしてあったが、なかに赤く光る唐がらしが点々としていた。ドアが一つちょっと開けはなしてあったので、彼がのぞくと、そこは最上等の部屋で、オランダ式の椅子いすや、黒いマホガニーのテーブルが鏡のように輝いており、まきおきは、シャベルや火箸ひばしも一式ふくめて、アスパラガスの葉のかげに光っていた。梅花うつぎと巻貝とが煖炉だんろの棚をかざり、その上には色さまざまな鳥の卵が紐に通してさげてあって、大きな駝鳥だちょうの卵が部屋の中央にさがっていた。隅の食器棚はわざと開けてあるのか、古い銀の食器や、よく手入れのゆきとどいた陶器など、莫大ばくだいな宝物が見えていた。
イカバッドがこの楽天地を一目見た瞬間から、彼の心の平和は消えてしまい、彼の唯一ゆいいつの念願は、どうしたらヴァン・タッセルのたぐいない娘の愛情をかちえることができるかということになってしまった。しかし、このことを成しとげるために彼がじっさい直面した困難は、ふつう昔の武者修行者の運命にふりかかったものよりも大へんだった。武者修行者は、巨人とか、魔法使とか、火を吹く竜とか、あるいはそれに似たもので簡単に退治できる敵と戦いさえすればよかったし、鉄や真鍮しんちゅうでできた門を通り、鉄石の壁をこえ、城の本丸に入りこみ、意中の女がとじこめられているところに行けばよかった。こんなことをするのはたやすいもので、クリスマスのパイを切りすすんで、その中心にとどくようなものだ。そして、婦人がその武士のこころにしたがうことは言うまでもないことだ。ところが、イカバッドの切りひらいてゆかねばならぬ路は、田舎の浮気娘の心に通じていて、そのまわりには気まぐれや浮気の迷路があり、絶えず困難や障壁が次々とあらわれるのだ。それに、彼が出あわなければならない恐ろしい敵軍は、血と肉とをもった人間、すなわち、彼女を賞讃しょうさんするあまたの農村の男たちだった。彼らは、彼女の心に通ずる入口をすべて取りかこみ、たがいに相手を憤怒ふんぬに燃える眼で見はっていたが、新しい競争者があらわれようものなら、共同の目的のためにただちに結束して襲いかかってくるのだった。
こういう連中のなかで、もっとも恐ろしかったのは、骨格のたくましい、ほえるような、威張りたがりの道楽者で、エイブラハムという男だったが、オランダ流にちぢめていえば、ブロム・ヴァン・ブラントといった。彼はこの界隈の英雄で、腕ずくと図々ずうずうしさとで名をとどろかしていた。肩幅がひろく、からだの自由がき、黒いかみの毛は短くちぢれていて、顔つきは武骨だが、嫌味はなく、道化たような、高慢なような風采ふうさいをしていた。ヘラクレスのような体格と物すごい腕力とのおかげで、彼はブロム・ボーンズ(骨っぱりのブロム)というあだ名で呼ばれ、どこへ行ってもその名で知られていた。彼は馬術については知識も腕前も大したもので有名だった。馬に乗ればそのたくみなことは韃靼だったん人さながらだった。競走や闘鶏にはいつでも第一位を占めた。権勢というものは田舎ではつねに肉体的な力があるものが獲得するものだが、彼もその権勢をもって、なにか争いがあればかならずその審判官になり、帽子を斜めにかぶって、判決をくだした。そのときの彼の態度や声の調子では、だれも反対したり嘆願したりすることはできなかった。喧嘩けんかや騒ぎといえばいつでもこいというふうだったが、気質は悪戯気いたずらっけたっぷりというほうで、悪気はあまりなく、強制的で荒っぽいのにもかかわらず、底には滑稽こっけいな茶目な色合いが強かった。彼には自分とそっくりな仲間が三、四人いて、みな彼を師表と仰いでいたが、その連中の先頭に立って、彼はあたりをのしあるき、四方数マイルにわたって、喧嘩であろうと、娯楽であろうと、どんな場所にでも飛びこむのだった。寒いときには、彼は毛皮の帽子をかぶり、その上にきつね尻尾しっぽをなびかせているので、すぐに見分けがついた。何か寄り合いをしている田舎の人たちが、この有名な頭飾りを遠くに見つけ、それが騎馬の一隊に取りまかれて跳ぶように動いているのを見ると、彼らはいつもあらしの来襲にそなえたものである。ときには彼の一味が真夜中に家々のそとを、ドン・コサック兵の一隊のように、けてゆくのがきこえることもあった。すると、老婆ろうばたちはおどろいて目をさまし、しばらく聞き耳を立て、騒ぎががたがたと通りすぎると大声をあげた。「そらそら、ブロム・ボーンズの一党だよ」近所の人たちが彼を見る目には、恐怖と、讃美と、善意とがまじりあっていた。ひどい悪戯や野卑な喧嘩が近所におこると、彼らはいつも頭をふって、ブロム・ボーンズが黒幕だというのだった。
この乱暴な英雄は、ここしばらくのあいだ、あの花の匂うカトリーナを選んで、彼の武骨な恋の目的としていた。彼の愛のたわむれは、どう見てもくまがやさしく愛撫あいぶするようなものだったが、ひそひそ声のうわさ話によれば、彼女はまんざら彼の望みをうちくだきもしなかったということだった。じっさい、彼の進出はほかの恋敵にとっては退却せよという信号であり、だれもよろいをつけたライオンの恋路を邪魔しようなどとは思いもしなかった。だから、日曜日の夜に彼の馬がヴァン・タッセルのところのさくにつないであれば、その乗り手が家のなかで求婚しているか、あるいはいわゆる「言い寄っている」たしかなしるしであり、ほかの求婚者たちはがっかりして通りすぎ、ほかの地域に戦線を移動したのである。
そのような恐ろしい相手とイカバッド・クレーンは争わなければならなかった。あらゆる事情を考えて見ると、イカバッドがたとえもっと頑丈な男だったとしても、この競争にはたじろいだだろうし、また、もしもっと賢明な男だったらあきらめたであろう。ところが、彼は生まれつき至って柔軟で忍耐づよかった。彼は形も心もくまやなぎのようだった。屈するかと見えても強靭きょうじんであり、曲っても決して折れず、ほんの軽い圧力でも頭を下げるが、それがなくなった瞬間、ぴんと立ち、しゃんとして、相かわらず頭を高く上げているのだった。
公然と戦場で彼の敵と相対峙あいたいじするのは正気の沙汰さたではなかった。なにしろ敵は恋路を邪魔されて引きさがるような男でないことは、あの嵐のように女を愛したアキレス同然である。だから、イカバッドはしずかにそっと徐々に前進しはじめた。歌の先生としての資格を利用して、彼はその邸に足しげく訪れた。親の面倒な干渉はとかく恋人たちの道のつまずきの石になるものだが、彼はそれで心配することは何もなかった。ボールト・ヴァン・タッセルはのんきで大まかな人だった。彼は娘が自分のパイプよりも好きで、さすがにわかりのよい男らしく、またすぐれた父親にふさわしく、何事についても娘の好むようにさせていた。まめに働く女房も、家政を見るやら、家禽かきんの世話をするやら、いろいろと仕事があった。彼女が賢明にも言ったところによれば、家鴨や鵞鳥は愚鈍な動物で、面倒を見てやらねばならないが、女の子は自分で自分の世話はできるというのだった。このようなわけで、多忙な女房が家じゅうをかけずりまわったり、あるいは、ヴェランダの片隅で紡ぎ車をまわしたりしているあいだ、ボールト老人はもう一方の隅で夕方のパイプをくゆらしながら、木でつくった小さな戦士が両手に剣をもって、納屋の尖塔せんとうのいただきで、勇敢に風と戦っているさまを見ているのだった。そのあいだに、イカバッドはあの大きなエルムの木の下の泉のほとりや、あるいは、黄昏たそがれのなかをぶらぶら散歩しながら、娘を口説くのだった。この時刻は恋人が雄弁をふるうのにいちばん好都合なのである。
どうすれば女を口説きおとすことができるか、わたしは知らない。わたしにとっては女はいつもなぞのようなもので、ただただ感服するばかりだった。あるものは、突けば壊れる急所がひとつしかない、中に入る入口がひとつしかないのかと思うと、また別の女には無数の通路があって、種々様々な手管でものにすることができる。この最初のほうの女を手に入れるのも手練の業であるが、あとのほうの女をしっかり逃さずにおければ、なおいっそうの軍略がある証拠である。このとりでを守るにはありとあらゆる入口や窓で防戦しなければならないのだ。したがって、千人の普通の女をかちえる男はどうやら名声を博するにあたいするだけだが、浮気女を一人でも手に入れて、完全にこれを牛耳ることができる男こそは、まさに英傑である。たしかなところ、あの恐ろしいブロム・ボーンズもこの英傑ではなかったのだ。イカバッド・クレーンが進軍を開始した瞬間から、ブロムの勢力はあきらかに衰退し、もはや日曜日の夜に彼の馬が例の柵につながれているのを見ることはなくなった。そして、ブロムとスリーピー・ホローの先生とのあいだには世にもすさまじい闘争がおもむろに展開されることになったのである。
ブロムは生来荒々しい騎士道精神をいくぶん持っていたので、この婦人に対する権利を決めるには事件を公然の争いとして、いにしえの武者修行者のやり方にしたがって、簡潔単純な一騎打ちによろうと思ったにちがいない。ところがイカバッドは敵のすぐれた腕力を知りすぎるほど知っていたから、あえて挑戦に応じようとはしなかった。うわさに聞けば、ボーンズは鼻高々と、「あんな学校の先生なんぞは、ふたつにへしおって、やつの学校の戸棚にたたきこんでやる」と言っていたから、彼はよく気をつけて、相手に機会をあたえないようにした。このように飽くまで平和的手段に出られると、ブロムはひどくしゃくさわったが、彼がうつ手はただひとつ、田舎流のいたずらの蘊蓄うんちくをかたむけて、恋敵にさんざんのわるさをするよりほかなかった。イカバッドは、ボーンズとその一党の荒くれ騎士たちに妙な工合ぐあいに苦しめられるようになった。彼らは今まで平穏だった先生の領域を荒らし、唱歌の学校は煙突をふさいでいぶり出してしまうし、校舎には堅固に結んだ紐や窓の心張棒があったにもかかわらず、夜なかに侵入して、なにもかもひっくりかえしてしまい、あわれな先生は、近隣の魔法使どもがみんなで集会でもしたのかと思ったほどだった。しかし、もっと困ったことは、ブロムがあらゆる機会を利用して彼を恋人の面前で愚弄ぐろうしたことだった。ブロムは犬を飼ってしごく滑稽に鳴くように教えこみ、それを連れこんでイカバッドが彼女に讃美歌をおしえる向うを張ったのである。
このようにしてしばらく時がたち、二人の競争者のあいだの情勢には実質的な影響はなかった。ある晴れた秋の午後、イカバッドは、もの思いにふけりながら、いつも彼が教室のなかのできごとを見張るときに腰かける高い椅子に王様のようにどっかとすわりこんでいた。その手に彼は専制君主の力を示すしゃくというべきむちをふりかざしていた。正義の鞭は王座の背後の三本のくぎにかけてあり、悪事をはたらくものを絶えずおびやかしていた。一方、彼の前の机の上にはさまざまな禁制品や御法度ごはっとの武器が、なまけものの腕白小僧からとりあげられて置いてあった。かじりかけの林檎りんごや、豆鉄砲やら、独楽こまはえとりかご、そのほか跳ねあがる紙の鶏がたくさんあった。見たところ、つい先刻おそろしい刑罰が加えられたばかりらしく、生徒はみな忙しそうに書物を熱心に見ているか、さもなければ、片眼で先生のほうを見ながら、たくみに本のかげにかくれてこそこそ内緒話をしている。教室全体がしんとしているのに、ひそかにぶつぶついう声がみなぎっているのだ。ところが突然その静粛を破って、黒人がひとり闖入ちんにゅうしてきた。麻屑あさくず製の上衣うわぎとズボンを着て、マーキュリーの帽子のような、ふちのない丸い帽子をかぶり、手入れも調教もろくにしてない暴れ小馬にまたがって、手綱もつけず、一本の綱であやつっていた。彼は学校の入口まで駈けこみ、イカバッドに、宴会か「縫物仕事の会」といったものが今晩ヴァン・タッセルさんのところで催されるから、それに出席するように、と招待の辞を述べた。黒人というものは、こういったたぐいのつまらぬ使いに行くと、とかく偉そうな振りをして、気取った言葉を使うものだが、この男もその例にもれなかった。彼は口上を述べてしまうと、いかにも彼の使いが重大で急ぎのことであるかのように、小川を駈けわたり、窪地くぼちを疾走してゆくのが見えた。
今まで静かだった学校は、いまやがやがや大騒ぎになった。生徒の授業は急いでどんどん進み、些細ささいなことにはかまわなかった。すばしこい子供は半分ぐらい飛ばしてもしかられず、のろまの子供はときおりしりをひどくたたいて急がされ、むずかしい言葉をしゃにむに読まされた。本は書棚にしまわずに投げだすし、インキつぼはひっくりかえる。椅子は投げたおすやらで、学校はふだんよりも一時間も早く退けた。子供たちは小鬼の群のようにわっと飛びだし、野原でわめいたり騒いだりして、早く解放されたのを喜んだ。
色男のイカバッドは少くとも三十分も余計にかけて化粧した。いちばん上等な黒の洋服、といっても、じつは色のあせた一帳羅だったが、それにブラッシをかけ、若がえらせ、学校にさがっていた壊れた鏡のかけらでかみの毛をなでつけた。正真正銘の騎士らしいいでたちで恋人に目通りするために、彼はそのとき泊っていたハンス・ヴァン・リッパーという年寄りの怒りっぽいオランダ人の農夫から馬を借り、威風堂々とそれにまたがり、冒険をもとめて旅立つ武者修行者よろしくのていで、駈けだした。ところで、わたしは当然、伝奇物語の真精神に従って、ここでこの主人公とその乗馬の風采ふうさいいでたちについて少々述べなければなるまい。彼のまたがった馬はよぼよぼのき馬で、年をとりすぎて、残っているものといったら、意地の悪い性質ぐらいしかなかった。やせて、毛なみはばさばさで、首は細くて醜く、頭はつちのような形だし、色のさめたたてがみや尾はもつれたうえに、いがなどがくっついて、くくれていた。片眼はひとみがなくなり、化け物のようにぎょろぎょろ光り、もう一方はまさしく悪魔のような光をおびていた。だが、この馬も、その名をガンパウダー(火薬)というのである以上は、若かった頃には熱と勇気をもっていたにちがいない。じじつ、この馬はかつては例の怒りっぽいヴァン・リッパーという主人の愛馬だったのだ。ところが、この主人は狂暴な乗り手だったから、おそらく自分の性質をいくぶん馬に注ぎこんだにちがいない。老いさらばえてやつれたりといっても、この馬には魔性がひそんでおり、その点では、この付近の若い馬などは及びもつかなかったのである。
イカバッドはそのような馬にはあつらえむきの男だった。あぶみが短かったので、両膝りょうひざくらの前輪にとどくほど高くあがった。彼のとがったひじはばったの足のように突きだし、鞭はその手に真直まっすぐに立て、笏をもつような恰好かっこうだった。馬がからだを揺りながらのそのそ歩いてゆくと、彼の腕は、鳥が翼をばたばた羽ばたくように動いた。小さな毛織りの帽子は額があまり狭いので鼻の上に乗っているように見えた。そして、黒い上衣のすそはぱたぱたして、馬の尻尾にとどきそうだった。そのような恰好でイカバッドと彼の馬とは、ハンス・ヴァン・リッパーの家の門をよろめき出ていったのである。まったくもって、とうてい昼の日なかに出くわすようなしろものではなかった。
先ほど言ったように、その日は晴れた秋日和あきびよりだった。空はすきとおってうららかで、自然界はゆたかな金色の衣をつけ、豊穣ほうじょうな実りを思わせるのだった。森は渋い茶色と黄色につつまれ、優美な木々は霜にうたれて、ちらほらと輝かしいオレンジ色や、紫色や、また真紅にそまっていた。かもは列をつくって空高く飛びはじめ、栗鼠りすの鳴く声が山毛欅ぶな胡桃くるみの林から聞えてくるし、うずらの笛を吹くようなさびしい声もときおり近くの麦の刈株の残った畑から聞えてきた。
小鳥たちは別れのうたげをはっていた。饗宴きょうえんもたけなわと見えて、羽ばたいたり、さえずったり、ふざけたりして、茂みから茂みへ、木から木へと飛びまわり、周囲の色とりどりの豊富なご馳走ちそうを思うままについばんでいた。正直ものの駒鳥こまどりがいた。これは子供の狩猟家の好む鳥で、声高に愚痴をこぼしているような鳴き声だ。黒鳥はさえずりながら黒雲のようにむらがって飛んでいる。金色の翼の啄木鳥きつつきは紅のとさかと、幅のひろい黒い喉当のどあてと、すばらしい羽毛をつけている。連雀れんじゃくは、翼の先が赤く、尾羽の先は黄色く、羽毛は小さな鳥打ち帽のようだ。それから、かけす。やかましいしゃれものだ。派手な空色の上衣を着こんで、白い下着をつけ、叫び、しゃべり、お辞儀をし、ぴょいと跳ね、頭を下げ、森の歌い手たちみんなと仲のよいような振りをしている。
イカバッドはゆっくり進んでいったが、その眼は、御馳走のたねを見のがすようなことは決してないので、うれしくなってこの楽しい秋の宝を見わたした。どこを見ても林檎があふれるほどだった。木の枝も折れるばかりに垂れさがっているかと思うと、集められて籠やたるに入れられ市場へ送りだすようになっていたり、また、うずたかく積みあげられて林檎汁しぼり機にかけるようになっているものもある。さらに先へ進むと、玉蜀黍とうもろこしの大きなはたけには、黄金色の実が葉のような包みからそとをのぞいていて、菓子やプディングがたくさんできそうだ。その下には黄色い南瓜かぼちゃがごろごろして、美しい丸い腹を太陽に向け、最上等のパイがいくらでもつくれそうである。やがて彼が馥郁ふくいくとかおる麦畑に通りかかり、蜂蜜はちみつの香を吸いこみながら見わたすと、うっとりするような期待が彼の心に忍びこんで、うまいホットケーキにバタをたっぷりつけ、蜂蜜か糖蜜をたらしたのを食べるときのことを考えた。しかも、これをつくるのは、カトリーナ・ヴァン・タッセルのやさしい、かわいい、ぽちゃぽちゃした手だ。
こんなふうに、いろいろな快い思いや、「甘い空想」に胸をいっぱいにしながら、彼は山なみの斜面を進んでいった。そこからは、壮大なハドソン河の絶景が望まれるのである。太陽は次第に丸く大きくなって、西のほうにまわってきた。タッパン・ジーの広い水面はじっと鏡のようで、ただところどころに静かな波がおこって、遠くの山の青い影をながくのばしていた。琥珀色こはくいろの雲が二つ三つ空にうかび、風はそよりともせず、雲は動かなかった。地平線は金色に光っていたが、やがてすっきりしたうす緑色になり、それからさらに頭上の空を染める様な濃紺に変っていった。斜めになった陽の光は、河岸のあちこちにそば立つ断崖だんがいのいただきの木立のあたりにためらい、岩壁の濃い鼠色ねずみいろと紫色とをいっそう深くきわだたせていた。小船が一そうはるか遠くにただよって、潮の流れにまかせてゆっくりと河を下り、帆は垂れて帆柱にかかっていた。空が静かな水に映えて光っているので、その船はまるで空中に浮んでいるように見えた。
夕闇ゆうやみが迫るころ、イカバッドはヴァン・タッセルの城に到着した。すでに近隣の才子佳人が大ぜい集っていた。年とった農夫たちは、鞣皮なめしがわのようなせた顔をして、ホームスパンの上衣とズボンを着て、青い靴下に、大きな靴をはき、仰山な白鑞しろめの締め金をつけていた。元気はいいが、もうしなびてしまった彼らの女房たちは、ひだのついた帽子をかぶり、胴の長いガウンを着て、手製の下衣をつけ、はさみや、針さしやら、派手なキャラコの袋を外側にたらしていた。かわいげな乙女たちも、母親同様古風な身なりではあったが、麦藁むぎわら帽子をかぶり、きれいなリボンをつけ、あるいはまた白いドレスを着ているあたりは、都会の最新流行のあらわれであった。息子たちは、裾を四角に切った短い上衣を着て、ぎょうぎょうしい真鍮しんちゅうのボタンをいく列も並べ、かみの毛はだいたい当時の流行にしたがって弁髪にむすんでいたが、特にそのためにうなぎの皮を手に入れることができればなおのことであった。鰻の皮はかみの毛にたいへん栄養になる強壮剤だと国じゅうだれでも考えていたのである。
ところで、ブロム・ボーンズはこの場の大立者だった。彼はこの集りに来るのに、デアデヴィル(命知らず)という愛馬に乗ってきたが、この馬は彼に似て、元気はいいし、悪戯いたずら好きで、彼でなければ御すことはできなかった。じっさい、ブロムは、悪いことばかりする駻馬かんばに好んで乗るので評判が高かった。騎手がいつでも首の骨を折る心配をしなければならないような馬が好きで、柔順でよく訓練された馬なぞは、血気盛んな若者には価値がないと考えていたのである。
この物語の主人公がヴァン・タッセルのやしきの大広間にはいってきたとき、彼の眼前にぱっと展開し、恍惚こうこつとさせた、あまたのすばらしい魅力あるものについて、わたしはしばらく述べたいと思う。それは、紅や白に絢爛けんらんと着飾った美しい乙女の群ではなく、秋の盛りの食卓にならんだ純オランダ田園風の大ご馳走であった。さまざまな、ほとんど言いつくせないほどいろいろな菓子が皿に山盛りになっている。経験をつんだオランダの女房連だけが知っているものだ。大きなドーナツもあれば、柔かいオランダ風ドーナツもある。かりかりした揚げ菓子もあれば、砂糖菓子やら、ショートケーキ、生姜しょうが菓子に、蜂蜜菓子、そのほか、ありとあらゆる菓子が総出だ。それから、林檎のパイがある。桃のパイがある。南瓜のパイがある。さらに、ハムも、燻製くんせいの牛肉もある。そのうえ、砂糖づけのすもも、桃、なし、まるめろの実が、見ごとにいく皿もならび、にしんの照り焼、とりの蒸し焼はいわずもがな。ミルクやクリームの鉢もそなわり、今わたしが数えあげたように、一切がっさい混沌こんとんとしており、しかもその真中からは大きな茶わかしが濛々もうもうたる湯気をまきあげている。いやはや、なんとも豪勢なものだ。この饗宴にふさわしいほど述べ立てていたら、わたしは息もきれるし、時間もなくなる。それに、わたしは物語を先に進めたくてたまらないのだ。さいわいにして、イカバッド・クレーンは、彼の物語を書いているこのわたしほど急いでいなかったので、ご馳走はどれもこれもしこたま頂戴ちょうだいしたのである。
彼は親切で、深く恩に感じる人間であり、心が大きくなる度合は、腹の皮がご馳走でふくらむのに比例し、ものを食べると元気が出るのは、ほかの人が酒をのんだときのようなものだった。彼は食べながらも、その大きな眼であたりを見まわしながら、ひとりで悦に入って、いつかは自分がこの想像を絶するほど贅沢ぜいたくで豪華な場所の主人になれるのだ、と思わざるを得なかったのだ。それからまた、彼は心ひそかに考えた。もうすぐにあの古ぼけた校舎なんぞには背を向けてやるぞ。ハンス・ヴァン・リッパーのつらに向って指をならしてやるぞ。ほかのけちけちしている後援者どもにもだ。そうして、風来坊の教師がやってきて、自分を仲間呼ばわりでもしようものなら、戸口からとばしてやるぞ。
ボールタス・ヴァン・タッセル老人は客のあいだを歩きまわっていたが、満足と上機嫌で大きくなった彼の顔は、丸く愉快で、秋の月のようだった。彼の客を歓待する挨拶あいさつは簡単だが、心がこもっていた。握手して、肩をぽんとたたいて、哄笑こうしょうし、「さあ、始めて下さい。どうぞ召しあがって下さい」と熱心にすすめるという一手だった。
やがて、広間から音楽のひびきがきこえてきて、ひとびとをダンスに呼びあつめた。演奏するのは年配の白髪頭の黒人で、もう五十年以上もこの界隈かいわいで巡回音楽師をしていた。その楽器は古くてこわれかかっており、彼自身とおなじだった。演奏中の大部分は、二、三本のげんをひきならすだけで弓を動かすたびに頭も動かし、新しい二人組が踊りだそうとするときには、きまって地面に頭がつくほどお辞儀をし、足をふみならした。
イカバッドは歌も得意だったが、ダンスも自慢だった。手足といい、筋といい、一つとして遊んでいるものはないのだ。彼のだらりとしたからだが全部活動し、部屋をがたがた動きまわるのを見たら、だれしも、あのありがたいダンスの守り神、聖ヴァイタスが親しく目の前にあらわれたと思ったことだろう。彼は黒人たちの賞讃しょうさんの的になった。彼らは、老いも若きも、大も小も、農場からであろうと、近所からであろうと、総出で集ってきていたのだが、今や、どのドアにも、どの窓にも、ぴかぴかした黒い顔をピラミッドのように積みあげて、大よろこびでこの光景を見つめ、白い眼玉をぐるぐるまわしながら、象牙ぞうげのような白い歯を耳から耳までむきだして、にたにたしていた。悪戯小僧どもをむちでこらす先生も、どうして元気よく嬉しくならないでいられようか。彼の意中の婦人がダンスのパートナーなのだ。そして、彼が色目をつかうたびに、彼女はやさしく微笑ほほえんでそれにこたえているのだ。ところが、ブロム・ボーンズときたら、恋と嫉妬しっとですっかりいためつけられて、ひとりで片隅にすわりこみ、怏々おうおうとしていたのである。
ダンスが終ったとき、イカバッドがひきつけられて加わったのは、年寄りの物識ものしり連中で、彼らはヴァン・タッセル老人をかこんでヴェランダのはしに坐り、煙草たばこをふかしながら昔ばなしをしたり、独立戦争の長い物語をのんびりとやったりしていた。
この近辺は、わたしが今話をしていることのおこった当時には、歴史に名高い物語や偉人が輩出した非常にめぐまれたところであった。独立戦争中は、イギリスとアメリカとの境界線が、この近くを通っていたので、ここは略奪の修羅場となり、亡命者や、王党側の暴れものや、そのほか、あらゆる国境の荒くれ男どもが跳梁跋扈ちょうりょうばっこしたのである。しかし、それからもういく年か過ぎ、この時分には当時の物語をする人もちょっとした都合のよいつくりごとで話に色をつけ、記憶もはっきりしないので、手柄話があれば、なんでもかまわず、自分をその立役者にしたてることができるのだった。
ドフュー・マートリングという青ひげを生やした大男のオランダ人の話では、泥でつくった胸壁から、九ポンド弾の古い鉄の大砲をぶっぱなして、イギリスの軍艦をあやうく撃沈しかけたが、惜しくも彼の大砲が六発目には破裂してしまったということだ。それからまた、一人の老紳士が話しだしたが、この人はたいへんな金持ちのオランダ人で、かるがるしくその名は言うことができないから、名は秘めておこう。この老人は、防禦ぼうぎょの術にすぐれており、ホワイトプレーンズの戦いのとき、飛びくる弾丸を短剣で受けながし、弾丸が刃先をひゅうといってまわり、つかにかるくあたるのをたしかに感じたとさえ言った。そして、その証拠には、その剣の柄が少し曲っているところを、いつでも見せてやろうと言った。ほかにも数人おなじように戦場で手柄をたてた人がいたが、いずれも自分の功績が力あって戦争がめでたく勝利に終ったのだと言わないものはなかった。
しかし、こういう物語も、そのあとにつづいた幽霊や化け物の話にくらべたらなんでもなかった。このあたりにはそのような貴重な伝説がたくさんあるのだ。地方色ゆたかな物語や迷信は、こういった辺鄙へんぴな、長いあいだ人が住みついていた僻地へきちでもっとも盛んになるのだが、アメリカのたいていの町や村を形づくっているのは移りあるくひとびとなので、その足の下で踏みにじられてしまうのだ。そのうえ、ほとんどどこの村でも、幽霊に元気をつけるものがなにもないのだ。幽霊が墓にはいって、ず一眠りして、寝返りをうつか、うたないうちに、まだ生存している友だちは近所を去っていってしまう。だから、幽霊が夜なかに出てきて徘徊はいかいしても、訪ねてゆくべき知合いが残っていないのである。おそらくこういうわけで、わたしたちは古くからあるオランダ人の村以外では幽霊のことをほとんど聞かないのであろう。
しかし、この近辺に怪談が多い直接の原因はあきらかに近くにスリーピー・ホローがあることだ。空中に魔力があって、あの奇怪な場所から吹きよせてくるのだ。この魔力がひとを夢や空想におとしいれる雰囲気を吐きだし、それが一面に伝染するのだ。スリーピー・ホローの住民も数人ヴァン・タッセルの邸に来ており、例によって、怪しいふしぎな伝説をぽつりぽつり物語っていた。不遇なアンドレ少佐が捕虜になった場所に生えている大きな木のあたりで、葬式の行列が見えたとか、哀悼の叫びや、すすり泣きの声が聞えたとかいう陰気な話がいろいろ出た。じっさい、その大木はこの近所にあるのだ。白衣に身をつつんだ女の話も出た。これはレイヴン・ロックの暗い谷間に出没し、冬の夜、あらしの前には金切り声をあげるのが聞えるのだ。この女はそこで雪に埋もれて死んだのだった。しかし、さまざまな物語のうちでいちばん主だったものは、スリーピー・ホローの立役者幽霊、首なし騎士だった。最近にもいく度か、この騎士が付近を巡回している音が聞えたし、そのときの話では、教会の墓場に毎夜その馬をつないでおくということだった。
この教会は人里はなれているので、浮かばれない死人の霊魂がいつも好んであらわれたようである。それは丘の上に建っており、まわりには南蛮さいかちやエルムが高々としげっていた。その木立のあいだから教会の瀟洒しょうしゃな白壁がしとやかに光っているありさまは、純潔なキリスト教精神が暗い幽境から輝きでるようであった。なだらかな斜面がここから下って、銀箔ぎんぱくをのばしたような湖にとどいている。その岸には高い樹木が立ちならび、木の間がくれにハドソン河一帯の青い丘が望まれるのだ。この教会の草の生えている墓地に陽の光がしずかに眠っているのを見たら、だれでも、少くともここならば死人が安らかに眠ることができるだろうと思うにちがいない。教会の一方には、樹木のしげったひろい渓谷がのびており、大きな谷川が、砕けた岩や倒れた木の幹に飛びちりながら、ごうごうと流れている。教会からさほど遠くないところで、流れが深く黒くなっているが、以前はそこに木の橋がかかっていた。そこまで行くみちも、それからその橋も、上からのしかかっている樹木にこんもりとおおわれており、そのために、この橋のあたりは昼でもほの暗かったが、夜になると、身の毛のよだつような暗闇となった。ここが、首なし騎士の好んであらわれたところで、ひとびとが彼に出くわすのもここであった。ブラウワー老人という、幽霊などはまったく信じない異端者についての話がでた。この男は、くだんの騎士がスリーピー・ホローに侵入しての帰りみちに行きあい、馬のうしろに乗せられ、やぶを通り、草むらを抜け、丘を越え、沼地をわたってけてゆき、ついにこの橋についた。そのとき、騎士は突然骸骨がいこつだけになり、ブラウワー老人を川になげこみ、木々のこずえよりも高く飛びあがり、雷鳴のようなとどろきとともに、消え去ったということである。
すぐさまこの物語に対抗して出たのは、いかにもふしぎなブロム・ボーンズの冒険だった。彼は、「早駈けヘッセ人」などは大でたらめのいかさま師だと見くびっていた。彼が確言したところでは、ある夜、近くのシンシンという村から帰ってくるとき、彼に追いついたのがこの深夜の騎兵だった。そこで、彼は相手に競走を申し入れ、ポンチ酒を一鉢けた。当然それは彼のものになるところだった。デアデヴィルは化け物馬を完膚ないまでやっつけたのだ。ところが、ちょうど彼らがこの教会の橋まできたとき、ヘッセ人はぱっと飛びあがり、一閃いっせん火焔かえんとなって姿をかきけしたのである。
暗闇で話をするときの、あの眠たげな低い声を聞き、ときおりパイプの光でかすかに照らされる、聞き手の顔を見ているとこうした物語はイカバッドの心に深く刻み込まれた。彼もそれに答えて、おなじように怪談をし、彼にとってかけがえのないコットン・マザーの著書からいろいろと抜萃ばっすいし、またそれに加えて、生れ故郷のコネティカット州でおこった事件をたくさん話したり、彼が夜ごとにスリーピー・ホローを散歩したときに見たおそろしい光景を語ったりした。
饗宴きょうえんはやがて終りに近づいた。年寄りの農夫たちは家族をあつめて馬車に乗せ、それからしばらくのあいだは、あちこちの道にうつろな音をたて、遠くの丘を越えてゆくのが聞えた。娘たちのなかには大好きな恋人のうしろの添えぐらに乗るものもあり、そのたのしげな笑い声がひづめのぱかぱか鳴る音にまじって、しんとした森にこだましたが、それもだんだんかすかになり、ついには消えてしまった。今まで陽気に騒がしかった邸は今や静まりかえり、人影はなくなってしまった。イカバッドだけはまだあとに残って、田舎の恋人たちがつねづねするように、あの跡とり娘と二人だけで話そうとした。彼はいまや成功へみちびく大道を進んでいると思っていたのだ。彼が彼女と会って、どんなことがおこったか、わたしは述べまい。じじつ、わたしは知らないのだ。しかし、どうもなにかうまく行かなかったらしい。あまり時もたたないうちに、彼は出てきたが、まったく悲しそうなげっそりした様子をしていた。ほんとに、女というものは、なんたることだろう。あの少女は浮気な悪戯をしたのだろうか。あわれな先生に愛想よくしたのは、先生の恋敵を完全に征服するための単なる見せかけだったのか。これは神だけが知っているのであって、わたしにはわからない。ただこれだけは言っておこう。イカバッドがこそこそと出てきたときの様子は、鶏小屋とりごやへ鶏を盗みに行ってきたようで、とうてい美しい婦人の心をうばいに行ってきたようには見えなかったのである。先刻まであれほど何度も彼が喜んで眺めた田園の富が両側にならんでいるのに、今は右も見ず左も見ずに真直まっすぐにうまやへ歩いてゆき、思う存分力をこめて馬をなぐったり蹴ったりして、乱暴にたたきおこした。馬はここちよい場所で深く眠りこんで、玉蜀黍とうもろこし燕麦えんばくのみのっている山々や、おおかわがえりやクローバの生えた谷間を夢に見ていたのである。
いまや夜もふけて、まさに幽霊が出そうなころだった。イカバッドは心重く、しょんぼりと、家路をたどり、タリー・タウンの上にそびえる高い丘の斜面を進んで行った。その日の午後には、彼はこの丘をあんなに楽しげに越えてきたのだった。時刻も彼と同様、陰鬱いんうつだった。はるか下のほうには、タッパン・ジーの水が暗く、ぼんやり、荒寥こうりょうとひろがり、陸のかげにしずかにいかりをおろしている帆かけ舟の高い帆柱があちらこちらに見えていた。真夜中のひっそりした静けさのなかに、番犬のほえる声が、ハドソン河の向う岸からさえ聞えてくるのだった。だが、そのほえ声もあまりにぼんやりしてかすかなので、自分はこの、人間の忠実な仲間からさえも遠くはなれているのだ、と感じるだけだった。ときたま、鶏がふいに目をさまして、長く尾をひいて鳴く声が、遠く、はるかに遠く、丘の間のどこかの農家から聞えてきた。だが、それも彼の耳もとに夢のようにひびくだけだった。生きものがいるしるしは、彼の身のそばにはなにもなかった。ただときどき、蟋蟀こおろぎがもの悲しく鳴いたり、食用がえるが近くの沼で、寝ごこちが悪くて急に床のなかで寝がえりをうったかのように、咽喉のどをならしているだけだった。
晩に聞いた幽霊や悪鬼の話が、みんないっしょになって、彼の心にうかんできた。夜はいよいよ暗くなり、星影も空に深く沈んでゆくように思われた。それに、疾駆する雲がおりおりその星さえもかくしてしまうのだ。彼はこんなにさびしくおそろしい思いをしたのは生れてはじめてだった。そのうえ、彼が今近づいてゆくのは、たくさんの幽霊の話がまつわる場所にほかならなかったのである。路の真中に大きなゆりの木が立って、巨人のように、あたりの木立の上にそびえ、一種の道標になっていた。その枝はこぶだらけで、奇妙な形をしており、ふつうの木の幹ぐらい大きく、よじれて地面につくほど垂れさがり、それからまた空中にのびあがっている。例の不幸なアンドレ少佐がそのすぐそばで捕虜になったので、この木は彼の悲劇的な物語と因縁が深く、アンドレ少佐の木という名でひろく知られていた。ひとびとはこの木を尊敬と迷信との混った気もちで見ていた。それというのは、この木に名を残した不幸な人の運命に同情していたからでもあり、また、ふしぎな物影が見えたり、陰気な嘆き声がきこえたりするという話がこの木に伝わっているからでもあった。
イカバッドはこの恐ろしい木に近づくと口笛を吹きはじめた。だれかが自分の口笛に答えたような気がした。だが、それは一陣の風がその枯れた枝をさっと吹きぬけただけのことだった。もう少し近くにきたとき、彼は何か白いものが、木の真中にるさがっているのを見たように思った。彼は立ちどまり、口笛を吹くのをやめた。しかし、もっとよく見さだめると、それは木が雷にうたれて、白木がむき出しになっているのだとわかった。突然、うなり声がきこえた。彼の歯はがたがた鳴り、両膝りょうひざを鞍にいやというほどうちつけた。しかしそれは重なりあった大枝が風にそよいでこすれる音にすぎなかった。彼は無事にこの木を通りすぎた。だが、新たな危険が行手に横たわっていたのだ。
この木から二百ヤードほどのところで小川が路を横ぎり、ワイリーの沼という、沼の多い、木のこんもりした谷間に流れこんでいた。ったままの丸太が二、三本ならべてあり、この流れをわたる橋のかわりになっていた。道の一方の、小川が森に流れこむほうの側には、かしくりの木立に野葡萄のぶどうつるが厚くからみついて、あたりを洞穴のように真暗にしていた。この橋をわたるのは、世にもつらい責苦だった。まさにこの地点で薄幸なアンドレは捕まったのであり、この栗や葡萄づるのかげにたくましい郷士たちが身をかくし、彼に不意打ちをくわしたのだ。それ以来この川には幽霊が出るといわれてきたので、今でも暗くなってからひとりでここを渡らなければならない小学生は、こわくてたまらないのである。イカバッドはこの川に近づくにしたがって、心臓がどきどきしはじめた。だが、彼は大決断をふるいおこし、馬のあばらを十回も蹴りつけて、一気に橋を駈けわたろうとした。ところが、このつむじ曲りの耄碌もうろく馬は、前に進むどころか、横へそれて、垣根にわきばらをぶつけてしまった。イカバッドは遅れたために恐怖がますますつのり、手綱をぐいっとばかり反対側にひき、他方の足で力いっぱい蹴とばした。それも駄目だった。馬が飛びあがったのは事実だが、今度は道の向う側のいばらやはんの木のしげみに飛びこんだ。先生は今やむちかかとと両方使って、年とったガンパウダーのやせほそった脇腹わきばらを滅多打ちにした。馬は、鼻息もあらあらしく、真一文字に走りだした。ところが、橋のまぎわまで来ると、はたと立ちどまり、不意をくらって乗り手はあやうく馬の頭をとびこして手足をひろげたまま投げだされそうになった。ちょうどこの瞬間、橋のかたわらで、ざぶざぶ水をわたる足音が、イカバッドの鋭い耳にきこえた。川のふちの、森の暗い影に、なにか巨大な、奇態な形をした、黒いものがそそり立っていた。それは動かなかった。暗闇くらやみのなかで、からだを引きしめて、巨大な怪物が旅人に飛びかかろうとしているかのようだった。
仰天した先生のかみの毛は、恐怖のために逆だった。どうすればよかろう。向きをかえて逃げだそうとしても、もう間に合わない。それに、とても逃げおおせるものではない。もしそれが幽霊か悪鬼だったら、風の翼に乗ることもできるのだ。そこで、彼は見せかけの勇をふるって、どもりながら訊問じんもんした。「だれだ、貴様は」返事はなかった。彼は前よりもっとふるえる声でくりかえした。なおも答えはない。もう一度彼はびくとも動かぬガンパウダーの横腹をたたきつけ、そして両眼をとじて、夢中になって、讃美歌さんびかをどなりだした。するとそのとき、この恐ろしい影のようなものは動きはじめ、ぱっと一飛び岸にかけのぼると、たちまち道の中央に突ったった。夜は暗く陰鬱ではあったが、この正体不明のものの形はいまや少しはわかった。それはからだの大きい騎士のようで、逞ましい黒馬にまたがっているらしかった。邪魔をしようともせず、さりとて、うちとけて挨拶あいさつをしようともせず、道の片側に遠ざかったまま、老ガンパウダーのつぶれている目の側について、ゆるゆると歩を進めた。ガンパウダーは今はおどろきもしずまり、おとなしくなっていた。
イカバッドは、この得体の知れぬ深夜の道連れが気に食わなかったし、ブロム・ボーンズが「早駈けヘッセ人」と競走した冒険談を思い出したので、自分の馬を急がせ、先に行ってしまいたいと思った。ところが、不明の騎士も馬を早め、歩調をあわせた。イカバッドは手綱をひきしめ、並足にし、後におくれようとした。相手もおなじようにした。彼は憂鬱になってきた。讃美歌をまたはじめようとしたが、からからに乾いた舌が上顎うわあごにくっついてしまった。一節も歌えなかった。この執拗しつような道連れが不機嫌におし黙っているのは、なにか不可解で、おそろしかった。間もなく、ぞっとするようなことがわかった。丘の上にのぼって、彼の道連れの姿がはっきりと空にうかびあがると、背は巨人のように高く、からだはマントにつつまれていたが、イカバッドが恐ろしさにきもをつぶしてしまったのは、その騎士に頭がなかったからだ。しかし、彼の驚愕きょうがくはさらに度を加えた。その頭が騎士の両肩のあいだに乗っていなければならないのに、鞍の前輪の上に乗っているのを見たのだ。こわさがあまって、彼はもう死にもの狂いになった。ガンパウダーを雨あられとっとばし、なぐりつけ、あっという間もなく駈けだせば、この連れから逃げだせるかと思った。しかし、幽霊も彼とともに一目散にかけだした。それから、彼らは、なにがあろうとかにがあろうとかまわず、突っ走った。一飛びごとに石は跳ね、火花は散った。イカバッドが懸命になって逃げようとし、長い痩身そうしんを馬の頭の前にのりだすと、その薄っぺらな洋服は空にぱたぱたひるがえった。
彼らはスリーピー・ホローへ曲る道についた。ところが、ガンパウダーは悪魔にかれたもののように、その道についてゆかずに、反対のほうへ曲り、丘をくだって左へまっしぐらに突きすすんだ。この道はくぼんだ砂地の木がしげっているところを四分の一マイルほど通って、怪談で名高い橋をわたり、そしてそのすぐ向うには例の緑の丘があり、その上に白亜の壁の教会が建っているのだ。
馬がおどろいて疾走するので、乗り手のイカバッドは熟達してはいないが、まだまだこの追跡戦はあきらかに彼のほうに勝ち目があるようだった。ところが、ちょうど彼が窪地の半ばまで来たときに、鞍のしめ革がほどけて、からだの下から滑ってはずれそうになるのが感じられた。彼は鞍の前輪をつかまえ、しっかり支えていようとした。しかし、駄目だ。あわやという間に彼は老ガンパウダーの首をつかまえ、自分は助かったが、鞍は地面におち、追手の足に踏みつけられる音が聞えた。一瞬、ハンス・ヴァン・リッパーが憤激するおそろしさが彼の心にうかんだ。この鞍は彼のよそゆきの鞍だったのだ。しかし、今はつまらぬ心配ごとをしているときではない。悪魔は彼のうしろに近く迫っている。それに、(彼はじつに未熟な騎手だった)腰をすえるのにひとかたならぬ苦労をし、一方に滑ったかと思えば、また一方に滑り、ときには、馬の背骨の高い峰にごつごつあたり、そのはげしさに、彼はからだが裂けてしまうのではないかと思った。
木立が開けてきたので、彼は教会の橋の真近かに来たと思ってほっとした。川のおもてに銀の星が映ってゆれているので、彼の考えは間違っていないことがわかった。見れば、教会の壁が彼方の木々の下にぼんやり光っている。彼は、ブロム・ボーンズと競走した幽霊がすがたを消した場所を思いだした。「あの橋に着くことができさえすれば」とイカバッドは考えた。「おれは助かる」ちょうどそのとき、その黒馬が彼のすぐうしろで息をはずませているのが聞えた。彼はその熱い息を感じたと思ったほどだ。彼がぎくりとして、また脇腹を蹴とばしたとき、老いぼれのガンパウダーは橋の上に飛びあがった。馬は橋の板を鳴りひびかせて渡り、向う側についた。そこでイカバッドはちょっとうしろをふりかえり、追手が、きまり通り、一閃の火と硫黄になって消えるかどうか見てみた。ところがそのとき、彼が見たのは、悪魔があぶみをふんまえて立ちあがり、まさにその頭を自分にむかって投げつけようとしているところだった。イカバッドは身をかわして、おそろしい弾丸を避けようとした。しかし、遅かった。弾丸は彼の頭にものすごい勢いでぶつかった。彼は真逆さまに地面にころがりおち、ガンパウダーと、黒馬と、幽霊騎士とは旋風つむじかぜのように通りすぎていった。
その翌朝、老馬が見つかったときには、鞍はなくなり、くつわは足の下に吊るさがり、馬はまじめな顔をして主人の家の門のところで草を食べていた。イカバッドは朝食にあらわれなかった。昼食の時刻がきた。だが、イカバッドは影も形も見せない。子供たちは校舎にあつまり、川の堤をぶらぶら散歩していた。だが、先生はいない。ハンス・ヴァン・リッパーは、あわれなイカバッドとそれから自分の鞍とにふりかかった運命が少々気になりはじめた。探索を開始し、あちこち熱心に調べたあげく、一同は彼の足跡にゆきあった。教会へ行く路の一カ所に鞍が踏みつけられて、土にまみれているのが見つかった。馬蹄ばていの跡は道に食いこんで、あきらかにものすごい速さで走ったらしく、橋のところまでつづいていた。橋を渡って、川幅がひろくなり、水が深く黒々と流れているあたりの岸辺に、不幸なイカバッドの帽子が発見され、すぐそのかたわらにつぶれた南瓜かぼちゃが一つ転がっていた。
川を捜索したが、先生の死体は発見できなかった。ハンス・ヴァン・リッパーは彼の遺産管理人として、先生がこの世でもっていた財産を全部いれてあるつつみを調べた。彼の財産は、シャツ二枚半、襟巻き二本、毛糸の靴下が一、二足、コールテンの古半ズボン一着、びたかみそり一ちょう、あちこち折りこんだ讃美歌の本一冊、それから、こわれた調子笛が一つであった。学校の書物や道具類は、村の所有物だったが、その他に、コットン・マザー老の「魔術の歴史」と、ニューイングランド年鑑一冊と、夢と易についての書物一冊があった。この最後の本には大判の洋罫紙ようけいしが一枚はさんであったが、むやみに走り書きがしてあったり、消してあったりした。いくたびやっても実らぬこころみではあったが、先生が一篇の詩をつくり、ヴァン・タッセルの世継ぎ娘にささげようとしたのだった。この魔術の書物と詩の書き散らしとは、ただちにハンス・ヴァン・リッパーの手によって焼却された。彼は、その後は自分の子供たちをもう学校にやらないことに決め、こんなものを読んだり書いたりしてもろくなことはない、と言った。先生はつい一日二日前に四半年分の給料を受けとったのだが、有り金はのこらず、失踪しっそうのときに身につけていたにちがいなかった。
このふしぎな事件は、次の日曜日、教会でさまざまな思わくをきおこした。ひとびとはいくつもの群になって、墓地や、橋や、帽子と南瓜とが発見された場所に集り、しげしげとあたりを見まわしたり、噂話うわさばなしをしたりした。彼らはブラウワーの話や、ボーンズの話や、またほかの話も全部思い出し、それらについてとくと考え、今回の事件と比較したあげく、みな頭をふって、イカバッドは韋駄天いだてん走りのヘッセ人にさらわれてしまったのだと決めた。彼は独りものだったし、だれにも借金はなかったので、もはやだれも彼のことで頭をなやまさなかった。学校はホローの別な場所に移され、ほかの先生が彼のかわりに幅をきかすようになった。
じつをいえば、この幽霊の冒険談はある年とった農夫から聞いたのであるが、この農夫が、その後数年してからニューヨークに行ってきて、故郷にもちかえったしらせによると、イカバッド・クレーンはまだ生きており、彼がこの近郷を去ったのは、一つには悪鬼やハンス・ヴァン・リッパーがこわかったからであり、また一つには不意にあの跡とり娘に捨てられたのが無念だったからである。彼は遠方に住居を変えて、学校で教えるかたわら法律を勉強し、弁護士になり、政治家に転じ、選挙運動に奔走し、新聞に寄稿もし、ついに民事裁判所の判事になったということであった。ブロム・ボーンズは恋敵が消えてしまってからしばらくのちに、花はずかしいカトリーナの手をとって誇らしげに祭壇にみちびいたのであった。そしてイカバッドの話が出ると、深く事情を知っているような顔つきをし、話が南瓜のことに及ぶと、愉快そうに爆笑したので、ひとびとのなかには、彼が事件をもっとくわしく知っているのだが、話そうとしないのだ、と疑うものもあった。
しかし、田舎の老婆ろうばたちは、こういうことについては最上の審判官であるのだが、彼女らは今でも、イカバッドは超自然的な方法でふしぎにも運び去られたのだと言っている。この近辺のひとびとは冬の夜に炉をかこみ、好んでこの物語をするのである。例の橋はいよいよもって迷信的な恐怖の対象となり、そのためであろうが、近年になって道すじが変えられ、教会へ行くには水車用水池の端を通るようになった。学校は使わなくなって、間もなく朽ちおちてしまい、不幸な先生の幽霊が出るといわれたものである。農夫の子が、静かな夏の日ぐれに家路をたどるときには、しばしばあの先生の声が遠くに聞え、もの悲しい讃美歌を人影もないしずかなスリーピー・ホローで歌っているような気がしたものである。

あとがき
ニッカボッカー氏の手記より

上述の物語は、古いマンハットー市(訳註)の市会の席上でわたしが聞いたのと、ほとんど全くおなじ言葉で述べたものである。この会には同市のオランダ人の古賢名士が多数出席した。話をした人は、快活な、むさ苦しいなりをした紳士風な老人で、霜降りの洋服を着て、顔に悲しげな影はあったが愉快そうであった。わたしが感じたところでは、貧乏にちがいなかった。だが、彼は大いにつとめて列席のひとびとを楽しませようとした。彼の物語が終ったときには、笑い声が盛んにおこり、なかなかの人気があったが、特別大笑いをして喜んだのは、二、三人の市会議員で、物語の大部分は居眠りをしていた人たちであった。しかし、ひとり背の高い、からびたような顔つきをした老紳士がいて、まゆが眼の上に張りだしていたが、この人は終始、重々しい、むしろ厳しい顔をしていた。そして、ときどき腕を組み、うつむいて、床を見つめ、あたかも心のなかで何か疑いごとを思案しているようであった。彼はいわゆる用心深い人で、笑うのはしっかりした理由があるときだけ、すなわち、理窟りくつと法則とにかなったときだけである。一同の歓声がしずまり、ふたたび静粛になったとき、彼は片腕を椅子いすひじにもたせかけ、もう片腕を腰にあて、わずかではあるが、まことに偉そうに頭を動かしながら、額をちぢめて、問いただしたことは、この物語が教えようとするのは何か、ということと、この物語は何を証明するのか、ということだった。
話し手は、労をねぎらうための葡萄酒ぶどうしゅのグラスを唇につけようとしていたが、一瞬静止して、無限の尊敬の意をこめて質問者を見やり、やおらグラスをテーブルにおろし、口を開き、この物語がきわめて論理的に立証しようとすることは、
「人生においては、たとえどんな場合でも必ず利点や愉快なことがあるはずです。もっともそれは、わたくしどもが冗談をすなおに受けとればのことですが」
「そこで、悪魔の騎士と競走することになった人は、とかくめちゃくちゃに走るのも当然です」
「したがって、田舎の学校の先生がオランダ人の世継ぎ娘に結婚を拒まれるということは、彼にとっては、世の中で栄進出世にいたるたしかな一歩だということになります」
用心深い老紳士はこの説明をきいて、三段論法の推理にしたたか悩まされ、十倍もひどく眉をしかめた。一方、霜降り服の紳士は、勝ち誇って、いくぶんあなどりの眼で相手を眺めたようであった。やがて相手は、それはそれでたいへん結構だ、だがなおも自分はこの物語がいささか突飛であると思う、一、二の点について自分は疑問をもっていると言った。
「おっしゃる通りです」と語り手は言った。「そのことにつきましては、わたくし自身、半分も信じてはいないのです」

D・K
原註 ウィッパーウィルとは夜だけ鳴く鳥である。この名がつけられたのは、鳴き声がそれに似ていると考えられたからである。
訳註 ニューヨーク市。

クリスマス・イーヴ

聖フランシス樣、聖ベネディクト樣、
この家を惡しき者共からお守り下さい。
夢魔と、あのロビン殿と呼ばれる
物の怪からお守り下さい。
惡靈共が襲ひ入りませぬやぅぅ、
妖精や鼬鼠、鼠、狸などの入りませぬやぅぅ、
夕の鐘の鳴る時から
翌朝までお守り下さい。
カートライト

皓々と月照る夜であつた、けれど寒さは嚴しかつた。わたし達の馬車はてついた大地をりんりんと疾驅した。馭者は絶え間なく鞭を打鳴し、馬は暫く勢よく疾走を續けた。「馭者は行先を心得てゐるのです」わたしの道連れは笑ひながら云つた。「それに召使部屋がまだ賑かに笑ひさざめいてゐるうちに行き着かうと思つて一所懸命なのです。わたしの父と云ふのは、よろしいですか、頑固な昔者でしてね、古風なイギリスぶりの饗應が自慢なのです。父ほど純粹にイギリス田舍紳士の型を保つてゐる人間は今時いまどき珍しいでせう。今日財産でもある人達はロンドンで過すことが多く、流行は盛に田舍に流れ込んで來るのですから、昔の田園生活のあのぐんと特色のあるところはもうあらまし研ぎ減らされて了つてゐますよ。ところが父は若い頃からチェスタフィールドの代りに地道なピーカムを金科玉條としてゐたのです。腹の底で思つてゐることはですね、眞に誇るに足り羨むべき境遇は祖先傳來の土地に住む田舍紳士のそれに過ぎたるはないといふ考だものだから、年がら年中自分の領地で暮してゐます。父は熱心に昔の田舍の遊び事や休日の慣例などを復活させることを主張して、凡そこの問題を論じた古今の書物に廣く通じてゐます。實際、父の愛讀書と云へば、少くとも二世紀以前に名を賣つた人たちのものですね。そして父に云はせると、その頃の人の方が、その後に出て來た人達よりも眞にイギリス人らしく物を書いたり考へたりしたのださうです。で、時には愚痴のやうに、もう二三世紀早く生れなかつたのが殘念だと云ふこともある位です。イギリスもその頃はほんたうにイギリスらしく獨特の風俗習慣と云ふものを持つてゐたと云ふわけです。邸は街道筋から可成り離れてゐて淋しい處ですし、近郷には向うを張る名家とてもないので、イギリス人として何よりも羨むべき幸福、つまり自分の氣儘に振舞つて誰からも邪魔をされないといふ境涯にあるのです。あたりで一番の舊家を代表する人ではあり、また百姓たちの大部分は父の小作人なので、非常な尊敬を受けて、普通にはただ『地主樣』の名前で通つてゐます。これはもう大昔から當家の家長につけられてゐる稱號です。わたしの老父についてこれだけのことを申しておけば、これであなたも、父の變哲ぶりに喫驚なさらないで濟むでせう、でないと莫迦莫迦しく見えないとも限りませんからね。」
わたし達はやや暫くの間莊園の垣に沿うて進んで行つたが、つひに馬車は門口の所に來て停つた。それは重々しく、宏壯古風な樣式で、鐡の閂を備へ、上部は奇想を凝した華やかな唐草と花模樣で飾られてゐた。門扉を支へる巨大な角柱は頂上に一家の紋章をめぐらしてあつた。門に接しては番人の家があつたが、鬱蒼たる樅の樹蔭に隱れ、殆ど植込の中に埋つてゐた。
馭者は門番の大きな鐘を鳴した、鐘の音は靜かな凍てついた空氣の中でりんりんと響き渡り、之に應じて遠くで犬の吠えたてる聲がした。犬たちがこの邸宅を護つてゐるのと見える。一人の老媼が直に門口に現れた。月の光がけざやかに老女の上に降りそそいだので、わたしは一人の小造りで素朴な婦人の姿を隈なく見ることが出來た、身なりはいかにも古風な趣味で、小ざつぱりとした髮被ひと胸飾を着け、銀のやうな髮毛が雪白の帽子の下から覗いてゐた。彼女は膝を屈めて敬禮しながら、若主人を迎へる歡びを顏にも言葉にも現すのであつた。夫は恐らく、お邸へ行つてクリスマス・イーヴを召使部屋で祝つてゐるのであらう。この男がゐないと座が持てなかつた、お邸では一番の唄上手、話上手であつたのだ。友人の申出に從つて、わたしたちは馬車を降り、莊園の中を歩いて邸館まで行くことにした。遠い距離ではなし、馬車は後からついて來るのであつた。行く手はうねうねと續く立派な並樹道で、裸の枝の間に光をこぼしながら月は澄み渡つた大空の深い穹窿を渡つてゐた。彼方の芝生は一面に雪に薄く蔽はれ、それが彼處此處煌いてゐるのは、月光が凍つた結晶體に反射してゐたのである。そして離れたところから見れば、薄い透明な水蒸氣が忍び足して低地から這ひ騰り、次第にこの風景を蔽ひ包まうとするのであつた。わたしの同伴者は恍惚とあたりを見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)した――「ほんたうに幾度」と友人は云つた、「わたしはこの並樹路を駈けぬけたことか知れませんよ、學校の休暇で家へ戻つた時にね。いつもいつも、子供の時わたしはこの樹の下で遊んだことでせう。これらの樹々に對して何か親のやうな一種尊敬の念をわたしは感じるのです、恰度子供の時わたし達をいつくしんでくれた人々を仰ぎ見るやうなものですね。わたしの父はいつも細かに神經を働かせて、わたし達の休暇は定つてきちんと取らせ、家族と守る祝祭日にはわたし達を自分の傍に集めたものです。父はいつもわたし達の遊び事の指圖をしたり監督をしたりしましたが、それは嚴しいもので、どこかの親たちが子供の勉強を見てやるのと同じでしたよ。父は非常にやかましく云つて、わたし達に昔のイギリスの遊びを昔の儘の方法でやらせたものです。そして古い書物を調べては、どんな『樂しい遊び』にも先例典據を得ようとしました。それでもですね、衒學といつてもあんな愉快なのはありませんでした。あのいい老紳士の綱領として、自分の子供達に家庭が此の世で最も樂しいところだと感じさせようとしたのです。そしてわたしは、この味ひ盡きぬ美しい家庭的情緒を、親の與へ得る贈物のうちで最も貴いものと高く買つてゐます。」と、わたし達の話を遮つて喧しく喚きたてる犬の一軍があつた、いろいろな種類、いろいろな大きさの犬で、「雜種、兒狗、大小の獵犬、劣等種の犬」が門番の鐘の音とがらがら通る馬車の音に驚かされて、口をくわつと開き、芝生の向うの方から飛んで來るのであつた。

「兒狗のやつまで一緒になつて、
トレイも、ブランチも、スウィーハートも、
こんなに、わたしに吠えつくのだ。」

かう大聲で云つてブレイスブリッジは笑つた。彼の聲が聞えると吼哮は歡びの叫びに變つて忽ちにして彼はこの忠實な動物どもに四方から飛びつかれ、じやれつかれて、殆ど手の下しやうがなかつた。わたし達はもうこの古いやかたの全貌が見えるところに來てゐた。建物は半ばは深い蔭の中にあり、半ばは寒い月光に照されてゐた、その形状は不規則的でずゐぶん宏壯な構へであるが、次々に異る時代に建てられたもののやうに思はれた。その一翼は明かに極めて古い時代のもので、どつしりした石の圓柱を持つた弓形張出窓には常春藤きづたが這ひ纏はり、葉の茂みの間で小さな菱形の窓硝子が月影に煌めいた。建物の他の部分はチャールズ二世時代のフランス趣味に從つて造られてゐて、この改修を加へたのは、わたしの友人の語るところによると、彼の祖先の一人で王政復古時代にチャールズ二世に隨つてイギリスへ歸國した人であつた。家の周圍まはりの敷地の設計つくりは、昔の一定の形式に則つたもので、人工的な花壇や刈込んだ植込、一段高くなつてゐる平場テレス、どつしりした石造の手摺、(その上に裝飾の壺が置いてある)、銅像が一つ二つ、それに噴水などがあつた。當主の老紳士は細心の注意を拂つて、この時代遲れの裝飾をすべて原型のままに保存しようと苦心してゐるとのことであつた。この樣式の造園法を愛賞して、それが宏壯の氣に滿ち、典雅高貴の風格を備へ、由緒ある舊家の樣式として良く適合してゐると考へてゐたのである。自然の模倣に終始する近代の造園法はもともと現代の共和思想と共に端を發したのであつて、これは君主政體には適合しない。そこにはあの社會的な水準化の傾向の匂がすると云ふのであつた。わたしは、政治を造園の問題に結びつけるのを聞いて微笑を禁じ得なかつたので、この老紳士が自己の信條に幾分こだはりすぎはしないかと懸念する旨を述べた。するとフランクは、この他には父が政治に觸れたのを耳にした例が殆どないと云ひ、父がこんな考へを懷いたのは或る國會議員が曾て數週間滯在してゐた間のことであると信じてゐた。この地主殿は刈込んだ水松いちゐや型に嵌つた平場テレスを辯護するためにはどんな理窟でも喜んで受入れた、さうしたものはそれまでにも屡々近代的な造園家たちから攻撃されたのだつたから。
館に近づくにつれて音樂の音が聞えて來た、そして時々どつと笑ふ聲もした。それは建物の一方の端からであつたが、ブレイスブリッジの言葉によると、確に召使部屋から聞えてくるのであつて、この部屋では思ふ存分に歡を盡すことが許される、いな御主人から獎勵される位で、クリスマスの十二日間ぶつ續けだつたが、ただ何事も昔の慣例に從はねばならなかつた。ここでは昔の遊び事がそのまま保存されて、鬼ごつこ、罰金遊び、目隱物當、白菓子盜、林檎受、葡萄取などが行はれた。ユール・クロッグ〔クリスマス・イーヴに焚く木〕やクリスマスの蝋燭は絶やさぬやうに燃され、寄生樹やどりぎは白い實をつけて掲げられ、綺麗な女中たちに今にも危險をふりかけさうであつた。
召使たちは遊びに夢中になつてゐたので、わたし達は幾度も幾度も呼鈴べるを鳴してやつと通じることが出來た。わたし達の到着が傳へられると、直に家長自身が他の二人の子息と一緒に出迎へに出て來た。子息の一人は陸軍青年士官で、賜暇を得て歸省してゐたのであつた。いま一人はオックスフォードから戻つた大學生であつた。主人は人柄で、健康さうな顏附の老紳士、銀髮がかるく縮れて、隈のない赭顏を包んでゐた。觀相家はこの赭顏の中に、わたしのやうに前以て二三の暗示を聞く便宜があれば、氣紛れと慈悲心が不思議に混り合つてゐるのを見るのである。
父子再會の有樣はいかにも愛情に滿ち溢れてゐた。夜は更けてゐたので、老主人はわたし達に旅裳束を着替へることも許さず、すぐさま大勢集つてゐるところへ案内したが、團樂の場所は古風な大廣間であつた。集つた顏は、あれやこれやの關係の親類縁者達で、よくあるやうに老衰の境に入つた獨身の婦人、若々しい花の盛りのいとこ達、一人前になるかならぬかの若者たち、そして朗かなをした寄宿舍學校のおきやんのお孃さん方が寄つてゐた。みんなは思ひ思ひのことをしてゐた、幾人かのものは銘々に札をもつて骨牌かるたとりをする、他の幾人かは爐を圍んで話合ひ、廣間の一隅に陣取つた若い一群は、もうすこしで大人に成ると云ふ年頃やまだうら若い蕾の年頃のがまざつて賑かな遊びに我を忘れてゐた。それからまた、木馬や、玩具の喇叭、こはれかけた人形などが床の上に狼藉の跡をとどめてゐるのは、多勢の小さい妖精たちのゐる證據であるが、その妖精たちは樂しい一日を跳ね※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて、今はもう眠の國に運び去られ、すやすやと平和な夜をすごしてゐるのであつた。
お互の挨拶が若いブレイスブリッジと親戚の間に交されてゐる間に、わたしには室をひとわたり眺め渡す暇が出來た。わたしは今まで廣間と呼んで置いたが、實際たしかに昔は廣間であつたもので、老主人も明かにそれを昔の儘の姿に修復しようと心掛けたものと見えた。どつしりと突き出てゐる煖爐の上には、甲冑をつけて白馬の側に立つた武士ものゝふの肖像が掛つて居り、それと向ひ合つた側の壁には兜と楯と槍が掛つてゐた。室の一端には非常に大きな鹿の角が壁の中に嵌め込んであつて、その鹿叉は帽子や鞭や拍車を懸ける用をなしてゐた。室の隅々には鳥銃や釣竿、その他遊獵の道具が置いてあつた。家具は前代の物々しく手數のかかつた造り方であつた、とは云つても當時の便利な品々も幾らか加へられてゐる、樫材の床には絨毯じゆうたんを敷いてあるので、全體の感じは應接間と廣間の奇妙な寄せ集めであつた。
鐡床は大きな、のしかかるやうな煖爐から取り外されて、薪火たきぎを燃すやうにしつらへ、その眞中にはすばらしく大きい丸太が赫々と燃えさかつて、大量の光と熱とを發散してゐた。これがユール・クロッグと云ふものだとのこと、老主人が特別に心を用ひてクリスマス・イーヴに運び込んで燃やし、昔の慣例を守つたのであつた。
まことに目に喜ばしく映つたのは老主人の姿であつた。親讓りの肱掛椅子に腰をかけ、客人をもてなす先祖代々の爐を傍にして、あたりを見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)す樣子は列星の中心の太陽が、一人一人の心に温みと歡びとを放射するのにも似てゐた。躯を伸してその足元にねころがつてゐる犬でさへ、もの憂げに寢がへりをして欠伸をする時には、懷しげに主人の顏を見上げ、尾を床にばたばたさせて、また伸々と眠につくのであつて、その温情と庇護に頼り切つてゐるのであつた。この純眞な款待の中には何か心の底から流れ來るものがあつて、それを言葉では描き出せないが、直に精神に感應して、新來の客人をも打寛がせるのであつた。幾分も經たぬうちに、この尊敬すべき老騎士の心地よい爐邊に座を占めてゐたわたしは、家族の一員であるかのやうに打ち融けた氣持になつてしまつてゐた。晩餐が報ぜられて間もなくわたし達の着いた饗應の室は樫材で造られてゐて、鏡板は蝋で光澤をだし、周圍の壁には家族の肖像が掛けてあつて、柊と常春藤きづたで飾られゐた。きまつて取附けてある燈火の他に二本の大きな蝋燭が立てられ、これはクリスマスの蝋燭と呼ばれるものであるが、常盤木に包まれて、美しく磨かれた食器棚の上に一家傳來の磁器皿と並べて置いてあつた。食卓には身になるたべ物が山と盛りあがつてゐた。尤も老主人はフルーメンティで晩食を濟せた。この料理は小麥を牛乳で煮て藥味で味をつけたもので、昔クリスマス・イーヴにはお定まりの一皿であつた。
わたしにとつて嬉しかつたのは舊知のミンスト・パイをづらりと並んだ御馳走の隨員の中に見つけたことであつた。そしてこのパイが完全に格式通りのものと分り、またこれがわたしの大好物であることを恥ぢるに及ばぬと分つたので、いつもわたし達が昔馴染の大變上品な知友に挨拶する時のあの温い友情を籠めて、わたしはこのパイに挨拶したのであつた。
一座の興を引立たせた面白い變り者があつて、彼をブレイスブリッジ君はマースター・サイモンと云ふ變つた呼び名で呼びかけてゐた。彼はきちんとした服裝をつけてきびきびした小男で、その物腰は正眞正銘の獨身老人であつた。鼻の形は鸚鵡の嘴のやうで、顏には微かに天然痘の痕があり、秋の霜にあつた木の葉のやうに、いつも乾いて赭みを帶びてゐた。その眼は敏捷で活々として居り、その底から覗いてゐる茶目つ氣は何人なんぴとの頬をもほころばせずにおかない底のものであつた。彼は明かに一族中の曾呂利で、婦人たちに向つて人のわるい冗談やあてこすりを盛に投げつけ昔からの話の種をむしかへして、いつまでも皆のものを可笑しがらせた。尤も不幸にしてこの古い話の種は、わたしが一族の年代記を知らないため、面白く聞くわけにはいかなかつた。見てゐると此の人物が得意になつて喜んだことは自分の隣席にゐた若いお孃さんをひつきりなく笑はせ、笑ひをこらへるのがせつないほどにさせたことであつたらしい。お孃さんは自分のお母樣が怖い顏をして向ひ側でたしなめてゐるのを知つてゐても笑ひがとまらなかつたのである。實際、彼は一座のうちの若い人たちにとつて人氣の的で、彼等は此の人の云ふこと爲すこと、その一つ一つの顏附にもどつと笑ひけるのであつた。それもその筈で、彼等の目にはこれが奇蹟とも云へるほど百藝に長じた人と映つたに違ひないのである。彼はパンチとジューデイの人形芝居の眞似が出來た。自分の片手でお婆さんを拵へることができた、これには燒けたコルク栓とポケット用ハンケチとを利用した。オレンヂをおどけた恰好に切つて、若い連中を抱腹絶倒させることが出來た。
わたしはざつとではあるが此の人物の身の上話をフランク・ブレイスブリッジから聞かされた。彼はいつまでも獨身でゐて、僅かながらも自活できるほどの收入があり、それを心がけて遣へば不自由なしに暮してゆけるのだつた。彼は血縁つづきの間を、まるで氣まぐれな彗星の軌道を運行するのと同じやうに、あちらの引つかかりから今度はそつぽの遠いつながりの處とわたり歩いてゐた。之は親戚の澤山ある併し財産の少ししかない紳士がイギリスではよくやることであつた。彼は口の輕い陽氣な性質で、いつも現在の瞬間を享樂した。そして始終居所を變へ附合ふ相手が變るので、獨身の老人には無慈悲に取りつくあの錆ついた融通の利かない習癖に煩はされずに濟んでゐた。彼に訊けば一族の年代記はすべて判明し、ブレイスブリッジ一家全族の系譜、歴史、婚姻關係に精通してゐるので、彼は老人の間で非常に氣に入られた。彼はまた老夫人や老い朽ちた老孃達の間では伊達者で通り、普通寧ろ若い人と見做される例であつた、そして子供仲間ではクリスマス祝祭の取持役であつた。かうしたわけで、これ以上人氣のある人物はサイモン・ブレイスブリッジ氏の出沒する圈内には他にゐなかつた。近年は殆ど全く老主人の邸に寄寓して執事のやうな役を勤め、わけて家長とは昔語りで馬を合せて氣に入られ、また時時に應じて昔の唄の一くさりを吹いて喜ばれた。わたし達は間もなく、この最後に述べた藝の見本に接することが出來た、と云ふのは、食事が片附けられて、香をつけた葡萄酒とかその他季節向きの飮料が運ばれて來ると早速、マースター・サイモンに昔のクリスマスの歌を一つと所望されたのである。一寸の間考へてから、目を輝かせ、惡くない聲で――ただ時々裏聲になつて、裂けた蘆笛のやうな音をだした――古風な小唄を一曲聞かせた。

「クリスマスが來たよ、
太鼓鳴らせうよ、
隣近所を呼び集め、
顏がそろたら、
御馳走祝うて、
風もあらしも寄せつけまいぞ……云々」

晩食のお蔭で誰も彼も陽氣になつてゐた、で、老竪琴師が召使部屋から呼びだされて來た、彼は一晩中そこで絃をぶるんぶるん鳴し續けてゐたのであつた。この男はどう見ても、地主家手製のビールをきこしめして愉快になつてゐた。彼は此の邸の謂はば居候で、世間體だけは村の住民だが、地主樣の臺所にゐる方が多いと云ふことである。それと云ふのも老主人が「廣間に響く竪琴」の音を喜んだからであつた。
舞踏は晩餐後の例として、浮き浮きした氣分が漲つてゐた。年寄連中のうちからも加つたりして、老主人までが或相手と組んで幾組かの踊手たちを顏色なからしめた。老主人自らの言葉によれば、その相手とは殆ど半世紀近くもの間、クリスマスの度ごとに踊つたのだと云ふ。マースター・サイモンは前の時代と今の時代を繋ぐ連鎖と思はれ、それと共に身についた藝ごとの味ひに少し古臭いところがあつたが、したたかに踊が自慢で、ヒール・アンド・トウやリガドゥーンやその他昔風の足の踏み方で信用をえようと努めてゐた。ところが運惡く組んだ相手が寄宿學校の小さなお轉婆娘で、彼女の元氣がよすぎるため彼は絶えず油斷ができないで、優美に踊らうと云ふ彼の眞面目な試みも挫かれてしまつた。かうした不似合な相手と結びつくことは老年紳士が不幸にしてよく見る例である。
若いオックスフォードの大學生は、未婚の叔母の一人を舞踏に誘ひ出したが此のやんちや者は彼女にあれやこれやありつたけの小さな惡戲をしながら、平氣な顏ですましてゐた。彼は實に冗談が上手で、叔母や從姉妹たちを揶揄からかつて苛めては面白がつてゐた。でも、凡て向う見ずな若者同樣、異性の間ではみんなに好かれた。尚また一番興味を惹いた一組は若い士官と、老主人に後見されてゐる、花も恥ぢらふ十七の少女であつた。その宵のうちにわたしの氣づいたことであるが、幾度となく羞ぢらひ勝ちに見交はした瞳からして、二人の間に優しい思ひが芽ぐみつつあるのではないかと思はれた。たしかにまたその若い軍人はロマンティックな少女を擒にする勇士に相應ふさはしかつた。彼は背が高く、すらりとした好男子で、また近年多くのイギリス士官の例に洩れず、色々と細かな身嗜みを〔ヨーロッパ〕大陸で見習つてゐて、フランス語とイタリ語が話せる、風景畫が描ける、歌も相當に歌へる、舞踏となると神技に達してゐると云ふわけであつた。併し何よりも彼はウォータルーで名譽の負傷をしたのである。十七歳の少女で、詩や傳奇小説を愛讀してゐるものが、なんでう以て此の武勇と練達の鑑に楯をつくことができようか。
舞踏が終るや否や士官はギターを手にとつて、昔ながらの大理石づくりの爐に凭れながら、それと意識してやつてゐるのではないかと疑はせるやうな身構へで、フランス語でトルバドゥアの小曲を歌ひ始めた。すると老主人は之に故障を申出でて、クリスマス・イーヴにはわがはえあるイギリスのものの外はいけないといましめた。それを聞くと此の若い吟詠詩人は、しばしを上げて記憶を辿るやうな樣子をしてゐたが別の曲を奏で始めた、そして慇懃な魅惑を含んだ姿態で、ヘリックの『ジューリアに贈る小夜曲』を歌ひ出たのであつた。

螢のまなこ 君もちて、
流るる星の從はば、
小人のむれも
小さき目ひからし
火花と照りて、君をまもらん。

君をあざむく 鬼火 なく、
蛇、くちなはも あだはせじ、
君行く路は
やすらかに
怪性のものも 君をあやめじ。

夜のくらやみも さはる なく、
月の光は まどろむも、
星の かづ かづ
光を わかち、
燭の火の 數かぎりなし。

ジューリアの君よ、きみ想ふ、
わが許へ 君來まさば、
白銀のみあし
われ迎へて、
心のたけを 君にそそがん。

この歌は殊更に、美しいジューリアのために歌はれたものかも知れないし、或ひはさうでないかも知れなかつたが、彼の舞踏の相手はさういふ名であつた。併し、彼女は確に、そんな意味の含まれてゐることは知らなかつたしるしに、一度も歌手を見ず床の上に瞳を落したままであつた。なるほど、彼女の顏は美しく紅潮し、その胸は優しく波打つてゐたが、併しそれはみな疑もなく舞踏で身體を動かしたためであつた。實際、彼女はいかにも無關心で、室咲むろざきの美しい花束をむしつて興を遣り、歌が終つた時には花束は見る影もなく床の上に散らばつてゐた。
一座の者たちはいよいよ別れるとなると、昔の習はし通りに、眞情のこもつた握手を交した。廣間を通つて、わたしに與へられた室に行く途中、燃えさしのユール・クロッグはなほ消えやらず、物佗しい光を放つてゐた。若しこれが「亡者も畏れて出歩かぬ」季節でなかつたならわたしは部室をそつと夜半に拔け出して、妖精どもが爐の周圍で躁宴に舞ひ狂つてゐはしまいかと覗き見したい誘惑に從つたかも知れなかつたのである。
わたしの室はこのやかたの古い部分に當つてゐて、物々しい家具調度類は巨人の時代に造られたものかも知れないのだつた。室をとりまく鏡板にはぎつしりと彫刻が施され、花模樣と異形の顏が不思議な組合せになつてゐた。そして一列に並んだ黒ずんだ肖像畫が悲し氣に壁の上からわたしをぢつと見詰めてゐた。寢臺はどつしりしたダマスク織で、色は褪せてゐたけれど高いとばりが附いて居り、張出窓と向ひ合つた壁の窪みに据ゑてあつた。床に入るか入らぬかに、音樂の調が突然くうに、窓のすぐ下の方で起つたやうに思はれた。耳をそばだてて聽くとそれは一隊の樂手が、どこか近隣の村から出て來て、クリスマスの歌を奏するのだと推想された。彼等は邸館のぐるりを※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて窓々の下で音樂を奏した。わたしは窓帳カーテンを引きあけもつとはつきり聞かうとした。月の光が窓の上部をとほして射しこんだ、そして古風な部屋の一部分を照した。樂音は、遠退くに從つてだんだんに柔かく、空に漂ふやうに聞きなされ、あたりの靜寂と月の光とに調和するやうに思はれた。わたしは、いつまでもいつまでも耳をこらして聞き入つた――樂音は次第にかすかに、遠くなつて行つた。そしてその音がいつとなく消え去るとともに、わたしの頭は深く枕に沈み、そして睡りこけてしまつた。

驛傳馬車

いざ、これより樂しまむ、
仕置を受くる憂なく、
遊びたのしむ時ぞ來ぬ、
時ぞ來ぬれば、いちはやく、
讀本などは投げ捨てて行く。
――學校休暇の歌

前章で述べたのは、イギリスに於けるクリスマス祝祭に就ての幾つかの一般的な觀察であつたが、今わたしは誘惑を感ずるままに、その具體的な例證として田舍で過したクリスマスの逸話を記してみたいと思ふ。讀者が之を讀まれる際に、わたしから辭を低くして切に願ふのは、いかめしい叡知はしばらく忘れて純一な休日氣分にひたり、愚かしきことをも寛き心を以て許し、ひたすら愉樂をのみ求められんことである。
十二月のこと、ヨークシャを旅行の途上、長い道程をわたしは驛傳馬車の御厄介になつたが、それはクリスマスの前日であつた。馬車は内も外も乘客が混みあつてゐた。その語りあふところから見ると、行先は主に親戚友人の家でクリスマスの御馳走になりに行くのらしかつた。馬車に積込まれたものとしては、また狩獵の獲物の入つた大籃や、珍味を詰めた箱などもあつた。野兎が長い耳をぶらぶらさせて馭者臺の周圍に吊されてゐた、遠方の友人からの贈物で、差迫つた饗宴の用に立てるのであらう。わたしは三人の美しい薔薇色の頬をした少年と一緒に、車内に乘つて行つた。少年たちの顏に溢れるはちきれさうな健康と、男らしい氣魄とは、わたしが今迄にも此の國の子供達のうちに見て來たものであつた。彼等は休暇で歸省の途上にあつて、いかにも陽氣で、これから澤山樂しいことが待つてゐるのだと勇んでゐるのだつた。聞いてゐるだに面白さうに、この小さな腕白たちはやたらに大きな計畫や、またやれる見込もない素晴しい遊びごとを、この六週間に演じようとしてゐたのである。この休暇と云へば、あの厭な書物と鞭と先生との束縛から解放の時である。彼等が胸を躍らして思ひ描いてゐるのは、家族の人々、さては飼猫や飼犬と顏をあはせる時のことであり、自分達のポケット一杯に詰込んである贈物で小さな妹たちを喜ばせることであつた。併し何よりも待遠しく思つて會ひたがつてゐるのはバンタムであつたらしい。バンタムと云ふのは小馬のことと知れたが、少年たちの話合つてゐるところでは、その優れた性質は名馬ブーシファラス以來どんな馬も及ばないのであつた。あのトロットの具合、あの走る姿、それから例の跳躍ぶり――全國どこの生籬だつてバンタムに飛越せないところはないのだ。
少年たちは特別に馭者から世話されてゐた。機會さへあれば彼等は馭者に向つて何やかやと質問をあびせかけ、そして彼を世界中で一番良い人だと云つた。實際その通りで、わたしの目にも彼の並々ならぬ樣子は映つたので、忙しく世話をやいたり、勿體ぶつた態度が見られた。帽子を少し横つちよに冠り、クリスマスの常盤木の大きなのを外套の釦孔に※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)してゐたのである。乘合馬車の馭者といふものは、きまつて氣の利いた、世話の行屆く人物であるのだが、とりわけその特色の見られるのは此のクリスマス季節のことである。贈答品の交換が盛んであるため、頼まれる用事も夥しいのである。で、今ここで、恐らく旅の經驗のない讀者のために一つスケッチを試み、この莫大な數に上る、そして重要な役柄の階級の人について、概略述べて置いても無下に邪魔扱ひはされないであらう。彼等には服裝も、作法も、言葉も、態度も、すべて獨特のものがあつて、それが同じ職業の者の間ではずつと行亙つて居り、苟くもイギリスの驛傳馬車の馭者は何處にゐても他の職業商賣の者とは決して間違へられることがないのである。
馭者はたいがい幅つたい、福々しい顏で、妙に赤い斑點が出來てゐて、まるで血液が精分の強い食物のために皮膚の血管の一つ一つに漲つてでもゐるやうである。身體がぶよぶよ膨れてゐるのは、頻りに麥酒を飮むためだが、その圖體が一段と大きいのは外套の重ね着をしてゐるからで、その中に埋つてゐる恰好はコーリフラワのやう、一番上の外套の裾は踵まで屆いてゐる。冠つてゐる帽子は鍔がひろく山が低い。大きくくるくる頸に卷いた染色のハンカチーフは利いた風に結んで端を胸にたくしこんである。夏ならば大きな花の束を釦孔に※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)してゐる。それは大抵は贈物、戀焦れた田舍娘からの贈物に違ひない。チョッキは普通きまつて派手な色の縞模樣で、半ズボンは膝より下までもあつて、脛のまん中どころにも達する乘馬靴と觸れあふくらゐである。
この服裝は實にきちんとしたものである。彼の自慢はそれが極上の布地で拵へてあることで、一見したところ粗大な風體のやうであるが、見別ける段になると、殆どイギリス人の天性と云つていい、あの身だしなみが判る。彼は大手を振つて道を行く。あちこちで村のおかみさんたちから聲をかけられ、信用のおける、頼りになる人だと思はれてゐる。また、眼のぱつちりした娘さんとの間にも了解が成立つてゐるらしい。馬換への場處へ着くと早速に彼は、聊か氣取つて手綱を抛り出し、馬は馬丁に任せてしまふ。彼の務は宿場から宿場へ馬車を驅るだけでいいのだ。馭者臺を降りると、外套のポケットへ兩手を突込む、そして宿の庭先を身體をゆさぶりながら、如何にも王侯氣取で歩きまはる。ここで、大抵は彼の崇拜者の群に取卷かれる。その連中は、馬丁や廐番の小僧たち、靴磨き、その他名のつけられない風來坊、宿屋や酒屋に出沒して使ひ走りをしたり、ありとあらゆる端下はした仕事をして、臺所の殘り物、酒場のしたみを頂戴して肥るという徒輩である。この連中はみな、彼を仰いで神の御託宣とあがめ、彼の口癖の文句を大事に覺えこみ、馬や博勞の話題について彼の語る意見を鵜呑みにし、わけても懸命になつて彼の風來物腰を眞似るのである。どんなやくざ者でも、苟くも外套を着てゐれば必ず兩手をポケットに突込み、馭者の歩き方に倣つて身體を横に振つて歩き、馬車屋の通語スラングをつかひ、恰も馭者君の卵になりすますのである。
恐らくは、樂しく晴やかな氣持でゐたからであらうか、わたしは誰の顏にも快活な輝きを見つつ旅を續けたのであつた。尤も驛傳馬車といふものは、いつも浮々したところがあるので、自分が威勢よく走ると共に、世の中をもじつとさせては置かないのである。角笛が村の入口で吹鳴されると、あたりは一齊にざはめき立つ。友達の出迎ひに急ぐ者があれば、包や紙の箱を手にして逸早く座席を占めようとする者もある。そして急ぎ周章あわてるために、ついて來た人々に別れを告げる暇もないほどである。かかる間にも馭者は小さな頼まれ事が山のやうにあつて、それを一々果さなければならない。時には野兎や雉子を配達したり、時には小さい包や新聞を居酒屋の戸口に抛りこんだり、または、知つてゐるぞと思はせぶりな横目をつかひ、口にもそれを出しながら、半ば赤くなり半ば笑ひかけてゐる女中さんに、田舍の愛人から預つて來た奇妙な形の艶書を手渡したりもする。馬車がガラゴロ村の中を通りすぎる時には誰も彼もが窓のところへ走り寄つて來るので、どちらを向いても血色のいい人々や、くすくす笑ふ娘盛りの顏に出會ふ。あちこちの辻角には村の閑人ひまじんや賢人たちの會合が開かれてゐる。彼等がそこに陣取つてどんな重大な目的を達しようとするのかと云ふと、驛傳馬車の通るのを見物することに外ならない。併し、村一番の賢人が集るのは鍛冶屋の仕事場にきまつてゐる。彼等にとつては、馬車の通過が思索の種子になる一大事件なのである。鍛冶屋の主人は馬の脚を膝に載せたままで、車が勢よく走りすぎるのを見ながら、手を休める。鐡砧かなしきの周圍の巨人サイクロプスたちは打鳴す鐡鎚をしばし止めて、鐡のめるのも構はない。また煤けた顏で鳶色の紙帽を被つた怪物は※(「韋+備のつくり」、第3水準1-93-84)ふいごに風を送つてゐるのだが、一寸その柄に凭りかかつて、喘息病みの器械に長い溜息をつかせ、自分は鍛冶場の黒い煙と硫黄のちらつく光の中から、目を光らして〔戸外を〕眺めるのである。
目の前に迫つた祝祭のために、恐らく、村はいつになく活氣を帶びてゐたのだらう、わたしには誰もみんな美しく見えたのだつた。獵の獲物や家禽、また其の他食卓の珍味が村々の間で取引されてゐた。八百屋、肉屋、果物屋などの店頭はお客で賑つてゐた。家々の主婦たちはぴちぴちと元氣に立働いて、家の中を片附けてゐた。そしてつややかなひいらぎの枝が鮮かな赤い實をつけて、窓々に姿を見せ始めた。こんな風景からわたしが思ひ出したのは昔の著述家の書いたクリスマスの準備の敍述であつた。「今や牡鷄も牝鷄も、七面鳥や鵝鳥や家鴨と一緒に、また牛や羊と共に、みな屠られるのである。何故と云つて、十二日の間、大勢の人々の胃の腑を滿たすには少々の食物では濟まないのである。梅や香料、砂糖や蜂蜜も、パイやスープと並べられる。今こそ曲節ふし面白く音樂が奏でられる、若い者は踊つて歌つて身體をぬくめなければならない、よし老人たちは爐傍に坐りこんでゐようともである。女中は買物を半分だけ忘れて歸つたりする、さうしてクリスマス・イーヴに骨牌を忘れようものなら、も一度出直さざるをえない。喧しく言ひ爭つて、やれ柊人形、やれ常春藤きづた人形と、夫婦して自分の方に花を持たせようと言い張りあふ。骰子と骨牌の遊びは給仕頭の懷中を肥らせる。そして若し料理人が頭のはたらく男なら、旨い旨いと指先をしやぶるのである。」
わたしの此の有難い空想を破つたのは乘合の少年旅客の叫聲であつた。少年たちは今まで數哩の間、馬車の窓から外を眺めて、故郷に近づくにつれ、あの木この家と一々見覺えてゐるのを喜んでゐたが、今やどつと一齊に歡呼の聲を擧げたのである。「ジョンがゐる、カルロだ、バンタムだ。」嬉しさで一杯の此の腕白少年たちは手を拍ち鳴した。
歩道の盡きるところに、眞面目くさつた顏の老僕が仕着しきせを着て、少年たちの迎ひに出てゐた。老僕の傍にはさかりをすぎた一匹の獵犬ポインターと名だたるバンタム、これは小さな老ぼれの小馬で、もじやもじやのたてがみに長い赤錆色の尾をたらし、睡たげに、温和しく路傍に立つて、やがて自分が忙しい目をすることなどは夢にも思ひ及ばぬ樣子であつた。
わたしは快い氣持になつて、少年たちがなつつこさうに、このきちんとした老僕の周圍を跳びはねたり、犬を抱きしめたりするのを見てゐた、犬は體躯をくねらして喜んだ。併しバンタムこそは何よりも嬉しい遊び相手であつた。三人が一時いちどきに乘りたいと云ふのだ、で、まづどうやら老僕ジョンの骨折で、皆が代る代る乘ること、そして第一番に上の兄さんが乘ることになつた。
いよいよ彼等は動きだした。一人は小馬に乘り、犬がその前を跳んだり、吠えたりしながら行くと、他の二人はジョンの兩手に喰ひついて、兩方から同時に話しかけ、老僕が口を利けないくらゐ我家のことを訊ねたり、自分たちの學校の話を聞かせたりした。少年たちを見送つてゐると一種の感情が湧いて來て、嬉しいのか悲しいのか自分でも分らなかつた。わたしは昔のことが想出された。嘗てはあの少年達のやうに、わたしも勞苦を知らず悲哀を知らなかつたのだ、そして休暇は地上の幸福の絶頂であつたのだ。わたしたちの馬車は數分間止まつて馬に水を飮ませた後、再び旅をつづけ、ある曲角まがりかどをまがると、小ざつぱりとした邸宅の見えるところへ出た。わづかにそれと見分けられるばかりだが、一人の婦人と二人の少女の姿が玄關に見え、わたしがお馴染になつた少年達がバンタム、カルロ、老僕ジョンと一緒に、一列になつて車道を進んで行くのが目についた。わたしは馬車の窓から乘りだすやうにして、この樂しい再會の有樣と[#「有樣と」はママ]見たいと思つたのだが、生憎ひとつの叢林が目路を遮つてしまつた。
晩方になつて驛傳馬車は一つの村に着いたが、わたしは豫め此の村で一夜を過さうと決めてゐたのだつた。宿屋の大きな門口に乘入れると、片側には、威勢よく臺所で火が燃えてゐるのが窓から外へ射してゐた。中に入つてみて、わたしは讚歎した、もうこれで百度目なのだが、あの便利な點、小ざつぱりとしてゐる點、そして屈托のない享樂、さういふ光景がイギリスの宿屋の臺所で見られるのだ。室は廣々として、ぐるりにはよく磨いた銅や錫の器が掛けられ、あちこちにはクリスマスの常盤木が飾つてあつた。ハムやタン、鹽豚の片半身、などが天井からぶら下り、轉串機くしまはしは爐邊に絶え間なく音を立て、柱時計は一隅に時を刻んでゐた。よく磨かれた樅材の食卓が臺所の一方に片寄せて置かれ、その上には冷肉の腿や、その他、身になりさうな食物が並べられ、その眞中に泡立つビールの大盃が二つ、張番をするやうに置いてあつた。上品でない旅客はこの身のある御馳走に今にも飛びつかうと待構へてゐたが、他の人達は煙草をふかしたり、ビールを呑み雜談に興じ、爐邊に据ゑてある背の高い樫造りの椅子に腰をかけてゐた。小綺麗に身づくろひした女中達は忙しく行きつ戻りつして、きびきびした女主人の指圖に從つた。それでも時折は一瞬の暇を捉へては、爐の周圍の人々と戲言ざれごとを交へ、どつと笑つたりもした。かうした光景の中に申分なく具現されてゐるのが、あのプア・ロビンが考へてゐた仲冬の愉樂であるのだ。――

樹々は今、葉つぱの帽子を脱ぎすてて
白髮の冬にお辭儀をいたす。
きれいな主婦、陽氣な旦那、
ビール罎、擧げる祝杯、
煙草に、それから石炭の火、
これらを缺いてはならぬ此の季節どき。
(一六八四年版『プア・ロビンの暦』)

わたしが宿屋に着いて程なく、一臺の郵便馬車が門口へ乘りつけて來た。一人の若い紳士が降りたのであるが、洋燈ランプの光でちらと見た顏に見覺えがあると思つた。わたしが乘りだしてよく確めようとすると、先方と目があつた。間違つてはゐなかつたのだ。それはフランク・ブレイスブリッジであつた。快活で愛想のよい青年で、わたしが嘗て一緒にヨーロッパ大陸を旅行したことのある人物だ。この再會は限りなく樂しく懷しいものであつた。凡そ共に一度でも旅をしたことのある相手の顏といふものは、いつも數限りもなく愉快な光景や、珍妙な冒險や、うまい頓智を囘想させてくれる。かうして囘想を宿屋での短い會談で語り盡すといふことは不可能であつた、そして彼は、わたしが忙しく時間に追はれてゐるわけでなく、唯そちこち見物して歩いてゐるのだと知つて、是非一日でも二日でも彼の父の邸で過してくれるやうにと云ふのであつた。彼はこれから父のところへ行つて休暇を送らうとしてゐるのだし、邸は二三哩離れた場所だとのことであつた。「宿屋でクリスマスの御馳走を一人で食べるよりはましですよ」と彼が云つた、「それにですね、古風な、心からの歡迎ができると思ふんですよ。」彼の説くことには理があつたし、白状すると、到る處で目につく賑かなお祭の支度は、自分の孤獨をいささか堪へがたく思はせてゐたのだつた。それで、わたしは直ぐさま彼の招きに應じたのである。馬車は玄關前に着けられた、そして數分の後、わたしはブレイスブリッジ邸へ向つて發足した。